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高野山 霊宝館(れいほうかん)

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収蔵品紹介

書跡

ろうこしいき上巻・下巻

国宝 聾瞽指帰(ろうこしいき) 弘法大師筆 2巻
金剛峯寺 平安時代
写真上:上巻巻頭
写真下:下巻巻末
弘法大師の著作で、本巻はその自筆本である。内容は儒、道、仏三教について三人の仮托人物に論ぜしめたもので、儒教をべつ毛先生、道教を虚亡隠士、仏教は仮名乞児が語り、儒道仏三教の優劣を論じ、仏教の妙理を説いている。大師が発心出家の意を親戚知己の間に表明したものという。
序文に、「干時平朝御宇 聖帝瑞号延暦十六年窮月始日」とあることから、大師二十四歳の著作であることが判明する。
料紙は縦に簾目(すだれめ)のある上質の麻紙(まし)を用い、書体は行草体を中心とし、まま雑体書風を交え浄書されている。書風は晋唐の行草体をよく学んだと思われる筆致で、やや右肩上がりに、力強く書かれている。
本巻を補訂改題したといわれる『三教指帰』とは序文、十韻の詩が異なるほか、多少の異同がある。下巻末には夢窓国師の跋と澄恵の寄進状を附す。これらによれば、本巻は貞和二年(1346年)、国師が大覚寺の寛尊法親王から拝領し、西芳寺を経て仁和寺に伝わり、天文五年(1536年)仁和寺経蔵から高野山御影堂に納められたことがわかる。

きんぎんじいっさいきょう

国宝 金銀字一切経 4296巻
金剛峯寺 平安時代
写真:大方広仏華厳経巻第五五
天治三年(1126年)三月二十四日の藤原清衡の中尊寺建立願文には「奉納金銀泥一切経一部」とあり、これに相当する一切経が現在、国宝となって金剛峯寺に伝わっている。大部の経典の中には、もっとも古いもので永久五年(1117年)の奥書があり、建立願文より以前より書写されはじめていることがわかる。
紺紙に銀の界線を引き、これに金字、銀字を一行おきに交書したもので、世に「中尊寺経」とも、発願者の名前から「清衡経」とも呼ばれている。見返絵は大部分が金銀泥書きの釈迦説法図を描くが、中には経意をあらわした宝塔楼閣、山水、動植物、人物など変化に富んでいるのも特徴である。

あてがわのしょう

国宝 宝簡集・続宝簡集・又続宝簡集
全298巻15冊(又続宝簡集七八巻 阿弖河庄上村百姓等言上状)
宝簡集・続宝簡集・又続宝簡集は、高野山に伝来する最重要な古文書類を巻子本や冊子装として編纂したもので、高野山史はもとより日本史にも欠くことが出来ない古文書群。
写真は建治元年(1275年)10月28日付けで、阿弖河庄(現、和歌山県有田郡清水町)の農民が、地頭(湯浅とその一族)の非道を十三箇条にしたためて荘園領主(円満院と寂楽寺)に訴訟した書状。本状は教科書にもよく掲載されており、「ミミヲキリ ハナヲソギ」の一文は特に有名。

源義経書状

国宝 源義経自筆書状 平安時代
宝簡集巻第33巻所収
義経(よしつね)が高野山の訴えに対して、認めた自筆の書状である。
平氏が西海に没しようとする時期のこと、高野山の所領であった阿弖河庄(あてがわしょう)が横領される事件が起った。この一件に対し、都にて代官を務めていた義経が、高野山側の訴えを認めた時のもの。

ちょういしこんりゅうくようがんもん

重文 町石建立供養願文 1巻
弘安八年(1285年)金剛峯寺
高野山の町石は、何時の頃か参詣者のための道しるべとして木製の卒塔婆が山麓の慈尊院から山上まで建てられた。それが長年の風雪で朽ちはてたので遍照光院の院主覚こうが発願勧進し、文永二年(1265年)から建治三年(1277年)までかかって石製に改めた。
この願文は、弘安八年(1285年)十月二十一日の町石落慶供養時の供養願文で、鎌倉時代の本格的な願文の一つである。
筆者は世尊寺第八代の藤原行能と伝える。

ますだいけひめいならびにじょ

重文 大和州益田池碑銘並序 1巻
高野山釈迦文院 平安時代
天長二年(825年)に完成した大和州益田池(奈良県橿原市)の建碑揮毫を依頼された空海が、自ら撰文揮毫したものの模本と考えられているものである。本巻は五色の絹24枚に篆・隷・行・草・雑体の書体を交えて152行に大書したものである。

ご注意

これらの宝物は、常時、展示されているわけではありません。
企画展・大宝蔵展に即して出品される場合があります。
画像の無断使用はできません。

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