

高麗陣敵味方戦死者供養碑 総高3.85p 幅 81.8p

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奥之院、中の橋を過ぎて覚鑁坂を登ると、参道左手に「高麗陣敵味方戦死者供養碑」が建っています。文禄・慶長の役で、戦死や病死した人々を供養するために、慶長4年(1599)、島津義弘とその息子忠恒によって建てられた供養碑です。この供養碑の特徴は、味方の軍兵だけではなく、李氏朝鮮・明国など、敵方の戦死者供養をも行なっていることにあります。
供養碑に記されている内容は次の通りです。
慶長二年八月十五日於全羅(道)南原表大明国軍兵数千騎被
討捕之内至當手前四百廿人伐果畢
同十月朔日於慶尚(道)泗川表大明人八萬餘兵撃亡畢
梵字 為高麗國在陣之間敵味方閧死軍兵皆令入佛道也
右於度々戦場味方士卒當弓箭刀仗被討者三千餘人海陸之間
横死病死之輩具難記矣 薩州島津兵庫頭藤原朝臣義弘
慶長第四己亥歳六月上澣 同子息少将 忠恒 建之
碑銘の最初にある慶長2年(1597)という年は、明国と秀吉軍との間で行なわれた講和交渉が決裂し、文禄の役に続いて再び戦となった時期となり(慶長の役)、同年8月には秀吉軍が全羅道南源城を陥落させています。碑文には、明国の軍兵数千騎が討ち捕られ、また同じ年の10月には、慶尚道泗川において、明国軍兵8万余兵を討ち滅ぼしたということが記されています。さらに碑文の後半部分には、秀吉軍も、矢に当たるなどして3千人ほどが亡くなり、海上と陸路を移動中にも多くの死者がでて、その数は具には記すことが出来ないほどだったとあります。
ちなみに供養碑の石材は、琉球石が使用されているとの言い伝えがあります。
高麗陣敵味方戦死者供養碑は高野山正智院が所有管理しており、昭和33年(1958)4月1日に和歌山県指定の史跡に登録されています。
高麗陣敵味方戦死者供養英訳碑
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