

金剛界曼荼羅図部分

高野山絵図に描かれる御廟橋。

観賢僧正が、廟窟(びょうくつ)を開いた場面。
高野大師行状図画、大師号事より |
奥之院弘法大師御廟(ごびょう)に一番近い橋を「御廟橋」といい、「ごびょうのはし」とは読まず、どういうわけか古来より「みみょうのはし」と呼んでいます。又の名を「無名橋」とか「無明橋」と書いて「むみょうのはし」と言う場合もありますが、本来は、「御廟橋(みみようのはし)」のようです。
御廟橋の敷板石数は36枚ありまして、それぞれに金剛界曼荼羅1461尊の内の代表37尊の諸仏諸菩薩の象徴、種子(しゅじ)というものが梵字で板裏に彫られています。板数が一枚足らないのは橋全体を一つと見ているからだと言われています。これに対して、胎蔵界は何処に当たるのかといいますと、大伽藍が胎蔵界だというのです。
御廟橋から奥は、特に浄域とされていまして、写真撮影や喫煙、飲食などは控えることとなります。本来は御廟橋の下に流れる玉川で手足を清めて、奥へと進んだのだそうです。現在ではそのようなことはしませんが、ただ、橋の手前で一礼し、参拝後、同じ場所で再度一礼することがなされています。この意味について考えますと、次のような話が思い当たります。
延喜21年(921)10月27日、観賢(かんげん)僧正というお坊さんの尽力によって、空海に「弘法大師」という諡号(しごう)が、時の寛平法皇より下賜(かし)されることとなり、同年11月勅使とともに御廟に詣られました。観賢僧正は、廟窟(びょうくつ)を開いて、禅定に入っておられた弘法大師の尊容を拝します。すると、髪の毛は長くの伸びきって、法衣はボロボロであったというのです。それで頭髪を剃って、同時に下賜された檜皮(ひわだ)色の法衣に更衣しました。
と、ここまでの話は有名なのですが、勅使お付きの唐笠持ち人夫の話があるのです。その人夫が大師御廟参詣の後、帰ろうとすると、弘法大師が御廟橋まで送ってくれた、というのです。それで不思議に思って、観賢僧正に問います。「どうして弘法大師は人夫の者にまで、わざわざ送ってくださるのか・・」。
観賢僧正は、「弘法大師は人の身分の上下でお送りされているのではなく、すべての人が持っている仏性(ぶっしょう)に対してお送りしておられます。これは大師の御誓願で、未来永劫、御廟へ参る者があれば、信心がある人も無い者も、必ず橋のたもとまでお送りされる。特に一心に信心するものは、必ずや願いをかなえ、諸仏の浄土にお送りすると・・」と答えられたということです。
あくまでも唱導的な話ですが、今でも奥之院に参詣する人達は、必ず橋を渡った後、振り返って一礼いたします。

御廟橋
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