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奥之院 頌徳殿 (しょうとくでん)
奥之院の建造物





正面扇形扁額「頌徳殿 座主宥範謹書」
第385世、密門宥範(1843〜1920)金剛峯寺座主の書になる頌徳殿額字。下段には施主大阪加納安蔵とあります。


頌徳殿内部
平成7年頃内部の美装工事が施され、随分と明るく綺麗になりました。


松下尚悦画楊柳観音像
松下尚悦画楊柳観音像
東京の細川糸子氏は、奥之院頌徳殿に高野大師行状図画を寄付する目的で、大正3年4月25日、松下尚悦、尚信画伯親子を伴って登山し、その折、本図が金剛峯寺へ奉納されました。
また清浄心院へは宝冠阿弥陀如来像が奉納されました。

奥之院頌徳殿(茶処)
頌徳殿とは奥之院御供所の隣に建つ、通称「茶処」と呼ばれる参拝者用の休憩所をいいます。大正4年(1915)、高野山開創千百年の記念事業として新築された建物の一つで、高野山でも少なくなりつつある大正時代初期の建造物です。

建物は桁行十間、梁行五間で建坪は五十坪。平屋造りで、正面上方には破風と呼ばれる大きく張りだした屋根を持ち、部材は総檜造りで屋根は当初檜皮葺でした。現在では銅板に葺き替えられています。   

大正4年(1915)に落慶供養が行われた頌徳殿(しょうとくでん)
大正4年(1915)5月8日に落慶供養が行われた頌徳殿(右端)。総工費は当時のお金で2万円でした。中央の護摩堂は御供所の北へと移転されました。

頌徳(しょうとく)とは、「功績・徳行をほめたたえること」の意味で、その名のとおり、有志の寄付によって造営された建物でした。記録によると、和歌山市萬精院と常住院両住職の発起になるもので、同市、三宅代三郎、宮井宗兵衛、三村栄吉、室安太郎、前田辰之助、橘吉右衛門、それに大阪市の高倉藤平、松井伊助、加納安蔵、本山彦一など、明治から大正期における実業家や名士が中心となって建設費用が援助されたことがわかります。さらに頌徳殿内部には「頌徳殿建築寄附芳名録」と記された額があって、そこには多くの寄付者の名前も掲げられています。

大正の初期、頌徳殿の内部に弘法大師の一代記「大師行状図画」の額絵を奉納しようと志した人がありました。それは東京高輪在住の細川糸子という方で、大正3年(1914)4月25日、画師を伴って高野山に登山し、頌徳殿に掲げる大師行状図画の寄付を約束されました。細川糸子氏は明治から大正時代にあって、相当に財力のある女性だったようです。大正3年5月18日、奥之院御廟橋を渡った左手に墓石を建立した時などは、所縁坊である清浄心院において三百人もの大衆を招待して大供養会を催したということですので、信仰心が篤く、財施の行を実践された方であったことがわかります。

高野大師行状図画 「高野山御開創」場面
高野大師行状図画 「高野山御開創」場面
東京在住の画師である松下尚悦(1875〜?)、尚信両画伯によって描かれ、大正5年4月16日に合計26枚の額絵として奉納されました。施主は細川糸子、図案指導者は冨田明次郎、発願者花谷理剛、所縁坊は清浄心院と記録されています。

こうして頌徳殿に掲げられることになった大師行状図画は、東京の仏画師、松下尚悦、尚信親子が担当し、大正5年(1916)4月16日に合計26枚が描かれました。ところが頌徳殿に掲げるには保存上よろしくないということになり、同じ時期に建てられた大師教会講堂内部に掲げられることとなり、現在に至っています。

「頌徳殿」額字
頌徳殿」額字 縦87.0p横170.0p
頌徳殿内部に掲げられていたものです。徳川頼倫の書で絹に墨書されています。
頼倫は明治5年生。和歌山藩主徳川茂承の家督を継ぎ、南葵文庫を創設し日本図書館協会総裁をつとめました。大正14年没。
本額字は平成7年に外され、現在霊宝館で保管しています。



頌徳殿の周囲には奉納額が掲げられています。これらは現在もあって、中央入口左上の額絵は大正11年10月10日に奉納されたもので、霊験譚の内容が描かれています。また明治45年の通夜御廟参詣百日間記念額や武運長久(明治39年)などという勇ましい額も掲げられています。
2007.1.2

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