よもやま記 > 消えた東照宮No.1
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興山寺東照宮跡
金剛峯寺


明治時代になって興山寺東照宮跡地は、中学林と大学林の運動場として利用されました。当時、運動場として坪数は1421坪であったと記録されています。
昭和3年(1928)頃から高野山内で盛んに庭球大会が催され、興山寺東照宮跡地も一時コートとして利用されたそうです。そのため興山寺東照宮跡地を「テニスコート」と呼んでいた時期がありました。

また、昭和33年(1958)11月頃には、東照宮跡地に「人形殿」を建てることが計画されました。人形殿とは弘法大師行状図画の64場面を人形で具体的にあらわし、パノラマ風に展示する施設だったようです。しかし建設までには至りませんでした。


興山寺東照宮敷地図面
興山寺東照宮敷地図面

大学林となった興山寺
大学林となった興山寺

明治19年(1886)、興山寺の建物は大学林(大学)として生まれ変わりました。

※高野三方(聖・行人・学侶)について出てきますが、よもやま記の「その他」に「高野三方」を設けていますので、ご参照ください。

 金剛峯寺奥殿の裏山には、明治期まで徳川家康をまつる東照宮が建っていました。興山寺東照宮、御仏殿などとも称されていたようですが、現在では敷地のみが広がっていて、権現壇と呼ばれています。
 興山寺東照宮の図面からは、敷地が南北四十間半(約73メートル弱)、東西二十七間(49メートル弱)で、本殿は三間四面、拝殿は南面が七間という建物だったことがわかります。
 江戸期の高野山内には、東照宮が二社、存在したという事実がありました。興山寺東照宮は行人方で維持され、大徳院東照宮は聖方の寺院によって管理されていました。
 大徳院東照宮とは、現在、徳川家霊台の名称で知られおり、家康と秀忠をまつる御宮と霊屋が建っていて、大正15年に重要文化財に指定されています。
 ここでは、行人方の興山寺東照宮がどうして建てられるようになり、そして、消えていったのかを見てみることにしました。
明治19年頃の興山寺東照宮
明治19年頃の興山寺東照宮の様子です。左下の「東寮」とは大学林の建物です。東照宮自体は、薬師堂と呼ばれていたことがわかります。東照宮へと登る途中に描かれる「東門」は、大学林の表門として移築されたといわれています。

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2006.7.21
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