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合体不動堂(がったいふどうどう) 現在は存在しません


高野山絵図 明治時代より
高野山絵図 明治時代
千手院観音堂にまつられていた頃の状況
千手院観音堂にまつられていた頃の状況です。
重文・不動明王立像 金剛峯寺 
重文・不動明王立像 金剛峯寺像高267.0センチメートル 大正14年8月25日重文指定
地蔵菩薩立像
もと合体不動堂にまつられていたと思われる地蔵菩薩立像
合体不動堂はこの先の峠付近にありました。
山内寺院と諸堂
合体不動堂
 そのむかし、合体不動堂と呼ばれるお堂がありました。高野山の鬼門にあたる場所に建てられたという伝承があります。その建っていた場所とは、現在の高野町役場から北東約100メートルほどの位置であったようです。一説には現、鶯谷地区の切り通しの上方に建立されていたとも言われており、明治期まで存在したことは左の絵図からも判明します。この場所は高野七口の黒河口にあたり、女人禁制の時代、女性はここから山内には入ることができませんでした。こうした位置には女人堂が建てられていたのですが、合体不動堂は別名「山の堂」とも呼ばれていた時期もあったようですので、時には女人堂の役目もはたしていたことが想像できます。

明治期の合体不動堂
 明治時代の高野山は、合体不動堂自体の雨漏りも修繕することが出来ないほど経済的に困窮した時期でもあり、ついには本尊自体の売却話まで発展したことがありました。しかし明治23年(1890)11月15日、同じ高野山の西生院という寺院の住職、一柳玄静という人が売却を阻止したということです。売却を逃れた合体不動堂は、同年千手院観音堂と合併して合体不動堂の本尊と脇仏の地蔵菩薩像(写真左下)が移されました。ちなみに明治期の番地表記では合体不動堂は「627番地」と記録されています。
 当時の合体不動堂の規模は、「京間三間四尺二寸四方」とあり、比較的大きな建物であったことがわかります。江戸時代には、毎年6月28日に「不動講」が行われていました。


合体不動の意味
 
『紀伊続風土記』によりますと、昔、ある僧が春日明神を祈りつつ不動明王を彫っていたそうです。そうしたところ、夢に明神が現れて「あなたが半身を作るのであれば、わたしも半身を作りましょう」と告げたのだそうです。このことから合体不動と呼ばれるようになったということです。
 この時のある僧とは、奈須七郎といった親張入道、別名「化千上人」と呼ばれた鎌倉時代のはじめ頃の人であったともいわれています。

合体不動堂本尊(重文・不動明王立像)
 合体不動と伝承のある不動明王立像が霊宝館に収められています。2メートル70センチ弱の巨像で、大正14年に重要文化財に指定されています。一見、一木より彫りだしているようにも見えますが、縦四材を合わせて造立しています。こうしたことから「合体不動」といった名前がつけられたのかも知れません。

高野山絵図 寛政5年(1794)より
高野山絵図 寛政5年(1793)
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