
「□國富□往」

「郎右衛□□光」

「・・・申載」

□□□・・四日
地蔵尊台座銘文

高野町東富貴地区


名迫明神社の社殿
富貴地区


高野山幼稚園での地蔵盆風景
2008.8.25
|
名迫地蔵尊は霊宝館の東側に位置する元高野山幼稚園の敷地にまつられている石の地蔵尊です。地蔵尊は元園舎の奥、南側の一段高い場所に今もお祀りされています。右手に錫杖をとり、左手に宝珠をのせて蓮台に座す姿をしておられます。像高は60cmで、本体と台座とを含めると、約190cmとなります。石造の台座基壇三面(下から三段目)には銘文が刻まれているのですが、一部くずれている箇所もあって、かろうじて判読できるのは、次のような文字となっています。
右面「□國富□往・・郎右衛□□光」
正面「廻先祖・・菩提」
左面「申載・・四日」
しかしこれだけだと、その内容をすべて理解することができません。
高野山幼稚園は、昭和8年(1933)4月に、現在の高野山大学正門内に建っていた金蔵院の屋敷を利用して開園しました。当初は高野山保育園と呼んだようです。記録によると、この時、園内に地蔵尊を安置することになったのですが、新たに造像するのではなく、奥之院の墓石群の中から選ばれてもってこられました。当時は台座の銘文がもう少し判読できたようで、地蔵尊は名迫伊光という人が江戸時代に造立したものであることがわかりました。つまり台座銘文は、「□國富貴往 次郎右衛門伊光」と読めることがわかりました。
名迫伊光という人
幼稚園の地蔵尊を造立した名迫伊光は、村の飢饉の際に自らの財産をもなげうって農民を救い、地域の人々から高野の生神として祀られた、「名迫大明神」その人でした。一人の人間が生きながらにして、実際に神として崇められるまでには、いったいどのような事柄があったのでしょうか。
高野山の麓には、同じ高野町内に富貴という地区があります。富貴は高野山よりも和歌山県橋本市や奈良県五條市、吉野郡などにも隣接しており、江戸時代には筒香、矢取(宿)、桑原などの八ヶ村を富貴(蕗)村と呼び、高野山の寺領として学侶方十九ヶ院が領主となっていました。地勢は田畑が広がる山間の盆地で、比較的寒冷地であることから作物が育ちにくく、昔は田畑の他に薬草や茶などを植えて生活の足しにしたということです。
名迫伊光は、富貴村の庄屋である名迫家二十六代行卓の一子として、慶安元年(1648)に生まれたとされています。幼名は亀次郎、大きくなるに従い次郎右衛門、元服して伊光と改名し、さらに僧侶となって覚性(戒名か)とも称したようです。晩年には生神として崇められた伊光でしたが、若い時には傍若無人な振る舞いや、賭け事などに明け暮れ、親や人のいうことを聞かない人物であったといいます。そんな伊光でしたが、父親の行卓が58歳で亡くなったのをきっかけとして、人が変わったように一生懸命に働くようになったのだそうです。
富貴村の大飢饉
西日本一帯をおそった世に有名な享保の大飢饉は、享保17年(1732)におこりました。これよりさかのぼること十数年、高野山周辺では正徳4年(1714)から享保3年(1718)にかけて大干ばつが発生しました。雨が降らないことで農作物が枯れ、穀物がまったく穫れず、村人たちは食べるものがなくなりました。ついには藁を煮て食べたといい、それさえも底がつくと、今度は蕗や蕨、蓬の根までを掘って食べたのだそうです。富貴村に約100軒近くあったという民家の内、5年間で200人余りの餓死者を出し、離村するものも出て、村の大半が空き家となったといわれています。
伊光は庄屋の家督を継いでいましたが、あまりの悲惨さに、一旦は自らも村を離れようとします。しかし残っている村人を放ってはおけず、村を代表して領主である高野山に対し、年貢の用捨と救済を願い出ることになりました。当初、伊光たち村人の願いは、簡単には聞き入れてもらえなかったらしく、その訴えは再三にわたり、ついには、高野山の検分役人であった明王院良照という人が富貴村へ派遣されてきます。良照は想像を越えた村の惨状を目の当たりにし、自らの立場も忘れて、所持金を村人たちに分け与えてしまったと伝えられています。こうして高野山年預坊(役所)からは、さっそく九石七斗の救米が出され、享保4年(1719)2月には十年間に及ぶ年貢が用捨を認められました。
伊光の徳行
富貴村は伊光の行動と指導によって飢饉を乗り越え、時間と共に村は安定し、栄えていきました。この時、伊光によって、従来、「蕗(ふき)」と記していた地名を「富貴(ふき)」に改めたられと伝えられています。
その後も伊光の徳行は枚挙にいとまがありません。困っている家があれば無償でお金を貸し与え、村の寺院再建から、神社仏閣への奉仕など、あらゆる慈善事業に取り組むようになりました。領主である高野山に対しても、決められた年貢を納めるだけではなく、少しでも余裕ができると奥の院参道の道普請や掃除料として、金品を寄付することも少なくなかったようです。その結果、年預坊の伊光に対する信頼は厚くなり、ついには富貴村の代官として取り立てられ、田畑の毛見や家造り、道普請、用水蓄池等の見分奉行にまで任命されました。
時代背景的に見ると、当時は豪農や村役人の不公平や不正が横行し、「村方騒動」や「越訴」が頻発した時期に差し掛かっています。村役人となった伊光でしたが、自らの立場を利用して暴利をむさぼることをせず、己を顧みず民百姓のためにと働いたことは、近隣の村々の見本ともなりました。こうしたことが伊光を偉人として認識する素地になったと解釈することができます。
ここで代表的な逸話を一つ紹介したいと思います。隣国の大和に、ある貧しい人がありました。その妻は長患いしていたので、決められた年貢を納めることができず、最終的には村を出て行かねばならなくなってしまいました。村役人としても、この一家をなんとか助けようとはしますが、それぞれに余裕のある身分ではないので、どうすることもできません。そうした時、村役人の一人が、紀州の富貴には、なんでも奇特な翁がいて、困っている人がいれば助けてくれるという話を聞きつけてきました。ところが肝心の翁の名前がわかりません。地元では有名な翁であろうと、とりあえず村役人を伴って富貴まで行ってみることにしました。大和五條のクロマというところで渡舟に乗り、そこで乗り合いの人たちに富貴の翁のことを尋ねると、その中に一人のみすぼらしい老人がいて、「何の用事で富貴に行くのか」と逆に問い返されてしまいます。他にも人がいたので理由を話さずにいたのですが、あまりに老人が尋ねるものだから、仕方なく訳を話すと、「その翁とはわしのことじゃ」というやいなや、袋から金包みを四つばかり取り出して、今日売ってきた茶の売上金を差し出しました。伊光は名も知らぬ村人に対して、手形も取らずにお金を貸し与え、さらに急ぎ帰るようにすすめたといいます。
名迫大明神となる
伊光の徳行は、村人や領主から寺社役所へと伝わり、最後には幕府から褒美が出されたほどであったようです。村人たちはそんな伊光に対して、信頼感以上に、信仰に近い感覚を持っていたに違いありません。伊光が77歳になった頃、村の有志45名によって、伊光を神と崇め、「名迫の宮」の神殿を造る計画を高野山に申し出ました。直ちにその願いは認められ、翌年には神殿が完成し、次いで高野山の北室院昶遍などは、享保10年(1725)に伊光が名迫明神となったことに対して、本地仏として地蔵尊霊像を贈っています。そして、遍照光院、蓮上院、薬師院、竜光院、勧喜院、阿光院、北室院、高善院、般若院などの山内寺院が集まって「地蔵講」を行うべきことを定めています。伊光自身が生きている段階で、本人を地蔵菩薩の化身として、地蔵講を行ったということには、まったく驚くばかりです。
伊光は生きた神として周囲の人々から崇められましたが、当の本人はというと、相変わらず粗末な衣服に身をつつみ、朝早くに起き出しては、従来と変わることなく仕事をしていたようです。毎朝、藁を打っては縄を作ってためておき、年の暮れになると縄を大阪へと売りに出しました。そして、その金銭をもって、困っている村人に対して施しを行ったのだそうです。
再び地蔵尊の台座銘文に解釈を加えてみますと、地蔵尊は次郎右衛門である名迫伊光が先祖の菩提のため、「申」の年に建立したらしいことがわかります。伊光は享保15年(1730)4月28八日に逝去したとされており、これに一番近い申の年とは、享保13年(1728)となります。翌年の享保14年、富貴村の人々は永く「名迫明神権現様之奥院地蔵尊様」へも参詣することを誓った記録が残っていますので、地蔵尊は遅くとも享保14年には造立されていたことになります。
名迫伊光の地蔵尊が、幼稚園に祀られるようになったのは、単なる偶然なのかどうかはよくわかりません。幼稚園自体は昭和42年(1967)6月になって現在の場所に移転新築されましたが、同時に地蔵尊も移されて現在に至っています。昭和8年当時、地蔵尊を奥の院から幼稚園に迎えたのは、伊光が造立した地蔵尊であることに、その意味があったのかも知れません
高野山幼稚園が平成21年に高野山保育所と共用化したことで、今では人々を救済し、神として崇められた名迫地蔵尊の回りから、園児の声が消えてしまいました。
|