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万日堂(まんにちどう) 現在、万日堂は存在しません
山内寺院と諸堂


弘法大師座像(万日大師)
万日堂本尊
弘法大師坐像(万日大師)
現在の高野町役場付近
現在の高野町役場付近高野町役場の南に建つ千手院観音堂
高野町役場の南に建つ千手院観音堂
高野山絵図 寛政5年(1793)
高野山絵図 
寛政5年(1793)

万日堂
万日堂
寛政5年(1793)
万日堂の所在場所
 万日堂というお堂は、現在の高野町役場付近に南面して建っていました。本来はもう少し北側に建っていたようですが、慶長3年(1598)3月10日の火災で類焼し、江戸時代も後期頃に千手院谷「観音堂」の敷地内に移築されたと考えられます(下の絵図参照)。
 その後、明治23年頃の山内寺院統廃合にともなって、万日堂自体は廃堂となったようで、千手院観音堂に本尊万日大師像が移されました。

 万日堂の意味
 『紀伊続風土記』や『紀伊国名所図会』などから万日堂の伝承を知ることができます。
 寛平年間(889〜898)の話ですので随分昔の話となります。あるお坊さんと童子がやって来て、一生懸命に弘法大師像を彫ったのだそうです。その後になって、弘法大師像に毎日30年間(1万950日)参詣し続けた行者がいました。ある時、その人の夢に弘法大師が現れて、「万日の功、真実なり・・」と申され、東方を顧みられたというのです。夢からさめて弘法大師像に詣ってみると、お首が左(東方)を向いていたということです。
 
 万日大師像(像高83.5センチメートル)
 明治期による万日堂の廃堂にともない本尊である弘法大師坐像は、その隣に建っていた千手院観音堂の内陣向って左の厨子(ずし)内に奉安されました。大正時代には、「万日大師」「横向き大師」などと呼ばれていた記録がありますので、この大師像が万日堂の本尊であったことは疑う余地がないと思われます。
 弘法大師のお姿は「御影(みえ・みえい)」と呼ばれ、絵画作品の多くは右を向いておられるのですが、本像は、先の伝承から左方向き(東方)となっています。本像には胎内銘文などがありませんが、その作風などから室町時代から桃山時代頃の造立と考えられます。
 長年に及んで、眼球を表現する玉眼(水晶)が割れ像自体の損傷も著しかったため、平成11年に修理費用の寄付によって修復が施されました。
2005.4.17
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