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 清高稲荷大明神 (きよたかいなりだいみょうじん) 
山内寺院と諸堂


稲荷社への鳥居
清高稲荷社への参道鳥居
高野大師行状図画(地蔵院本)より
弘法大師が稲を担った老翁(稲荷明神)と遇う場面。高野大師行状図画(地蔵院本)より
高野大師行状図画(地蔵院本)より
東寺で老翁姿の稲荷明神と再会し、ご馳走を振る舞う場面。高野大師行状図画(地蔵院本)より
稲荷社の石灯籠
清高稲荷社の石灯籠 

稲荷社
清高稲荷社

 高野山の蓮華谷には、「正一位清高稲荷大明神」というお稲荷さんがお祀りされています。この稲荷社は北室院の東側に位置し、登り坂となる参道には朱塗りの鳥居が幾重にも建てられています。現在、清高稲荷社は地区を中心としたの有志により管理されており、毎年11月8日には大祭が行われています。
 江戸時代の資料をみると、蓮華谷の稲荷社は弘法大師空海が勧請(かんじょう)したという説と、平安時代の終わりに教尋という人が、稲荷明神と弘法大師との関係から勧請したという二説があることになります。そこで先ず、稲荷明神と弘法大師との関わりについて見てみることにしましょう。
稲荷契約
 稲荷明神と弘法大師との間には次のような契約事がありました。弘仁7年(816)頃、弘法大師が紀州の田辺に巡錫された折り、身の丈が八尺(約2.5メートル)もある筋肉質の老翁に出遇いました。この老翁が、実は稲荷大明神だったのです。大師は稲荷明神に対して、後に鎮護国家のために密教を興すべき拠点を東寺(京都)に置くことになるので、そこに来て寺院を守護してもらいたいと依頼します。稲荷明神は快諾され、こうして稲荷明神と弘法大師の間で契約が交わされることになりました。
 弘仁14年(823)の正月になって、嵯峨天皇の勅により大師が東寺を賜ることになります。その同じ年の4月13日、東寺の門前に稲を担った老翁が二女と二子を伴って現れました。大師は、以前に田辺で遇った稲荷明神であることを知り、大いに喜び、赤飯などをご馳走し、八条二階堂柴守長者の宅に宿を取って、20日間逗留してもらいました。そうして東寺の東南に位置する山をえらんで、鎮守神として稲荷明神を祀る社殿を設けました。これが伏見稲荷社の由来ともなっています。
 以上の話は『弘法大師絵詞伝』を参考にしましたが、『高野大師行状図画(地蔵院本)』などによると、大師は筑紫で稲を担った翁に遇い、その後に紀州の田辺で再度遇ったことになっていて、少し内容が異なっています。ただし、いずれにしても稲荷明神との契約事があったという点においては、違いはありません。
清高稲荷大明神
 参道の第一番目の鳥居には、「正一位清高稲荷大明神」の額が掲げられていますが、江戸時代の資料には単に「稲荷社」とあるだけで、「清高(きよたか)」の名称を見つけることができません。このことについては、今後調査をして明らかにできればと思っています。
 稲荷社の由来について、ここでは弘法大師が自ら稲荷社を勧請したという説は取り上げず、教尋という人が勧請したとする話をご紹介いたします。
 教尋(きょうじん)は別名を永尋ともいい、三井寺で天台密教をおさめ、その後、仁和寺で修業した学徳の高いお坊さんで、後半生は高野山に住し、永治元年(1141)に遷化しています。新義真言宗の開祖である興教大師覚鑁(かくばん)は、教尋からも密教の深義を学んだとされていますので、師弟の関係にあったことがわかります。覚鑁が大伝法院を創建する際には、教尋の勧めも少なからずあったことは、後に教尋が大伝法院の学頭になっていることからも窺い知ることができます。稲荷社が教尋によって勧請されたという伝承は、逆に言えば覚鑁、あるいは大伝法院関連の寺院との関わりをも示唆しているものと想像することができます。
 かつて弘法大師が、稲荷明神に対して東寺の守護を依頼し迎えたのと同じように、大伝法院の設立創建には稲荷明神の勧請が重要だった可能性があります。覚鑁が紀州根来の地を平為里より寄進を受けたのは、東寺の鎮守神である稲荷社(伏見稲荷か)に詣でたところ神告があって、そこで契約が結ばれていたのだといいます。
 以上のことから考えると、寺院の経済的な基盤を確保するのには、地方豪族や貴族と当時の稲荷信仰が重要な意味を持っていて、大伝法院の場合も稲荷社が勧請されなければならない必然性があったのかも知れません。
 大伝法院は正応元年(1288)に高野山から根来に移りましたが、その際、稲荷社はのこされて、稲荷社を祀る場所を「稲荷壇・稲荷の壇」と呼んだと記録されています。

2009.5.5

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