よもやま記 > 高野山七弁天 > 湯屋谷弁天


湯屋谷弁天 高野山七弁天
山内寺院と諸堂


万治元年(1658)本絵図。湯屋谷弁天社の前身
万治元年(1658)本絵図。湯屋谷弁天社の前身と思われる弁才天。
絵図にみる湯屋谷弁天
絵図にみる湯屋谷弁天
寛政5年(1793)絵図より
寛政5年(1793)絵図より
文化13年(1816)絵図より
文化13年(1816)絵図より
湯屋谷弁才天の厨子(ずし)扉銘
湯屋谷弁才天の厨子(ずし)扉銘。「奉納 享保二年丁酉七月吉日」とあります。写真は中本芳也氏提供。
修理遷座札(しゅうりせんざふだ)
明治39年(中)、昭和2年(右)、平成6年(左)の修理遷座札。写真は中本芳也氏提供。

湯屋谷弁天 
所在地:愛宕谷バス停横
大門から山内へと入りますと信号機のある交差点があります。この辺りを総称して西院(さいいん)と呼び、交差点を右(南)に入る一帯を愛宕谷とも呼んでいます。愛宕谷の谷名は、江戸時代の中頃になって火災除けの愛宕権現が勧請されたことに由来します。さらにそれ以前には大きな湯屋があったので湯屋谷とも呼ばれましたが、今ではこの名を使うことはありません。
現在、湯屋谷弁天社は西院の交差点北の角、もと智荘厳院という寺院の跡地にまつられています。しかし本来は、湯屋谷、現在の愛宕谷の奥(南)の小高い丘の上にまつられていました。湯屋谷弁天という名称はこの谷名によることがわかります。

湯屋谷弁天の変遷
湯屋谷弁天の変遷を各種高野山絵図から見てみますと、元禄時代に一つの分岐点があるように思われます。
万治元年(1658)までの絵図には、湯屋谷地区に記される弁天社は、寺院や坊と並んで配されています。それに対して、元禄6年(1693)の絵図になると、寺院の敷地とは別の一段高い丘の上に描かれるようになります。万治元年までの絵図は建物を描かず寺院名などを記すのみで、それ以降の絵図では主要な建物を立面図的に描くといった違いはあるにせよ、弁天社の位置には明らかな違いがあります。
さらに寛文12年(1671)成立の『高野山通念集』には、湯屋谷弁天に関する記述がありません。このことは、寛文年間の頃には湯屋谷弁天として認識されていないことを意味するものと理解され、万治元年までの絵図に記されている「弁才天」とは、寺院固有の鎮守社であったと考えることができます。
その後、弁天社は元禄6年本絵図に見られるような地域の共用的な社(やしろ)に変化していることがわかります。
ちょうどこの時期は、学侶方と行人方の争いが頂点に達しました。元禄5年(1692)、幕府の裁決によって千人におよぶ行人が流罪や山外追放となり、行人方寺院900ヶ院がとりつぶされたといわれています。こうして廃寺となった寺院の中には、湯屋谷に弁天社をまつっていた寺院も加わっていたのかも知れません。つまり寺院は廃寺となったものの弁天社がのこり、元禄6年頃になって湯屋谷の弁天社として、一段高い丘の上に遷座されたのではないかと考えられます。
また別の視点から見ますと、元禄年間(1688〜1703)頃から高野山内にお坊さん以外の人々(男子のみ)が公に住むようになり、門前町が形成されはじめたとする説があります。それは行人方寺院が大幅に削減されたことと無関係ではないと思います。それまでの高野山では、衣食住などの商品や生活基盤を担っていたのは行人方であったはずです。その行人方が少なくなったことによって、一般在家者(商家)の居住という必要性が大幅にでてきた可能性が考えられます。それと同時に、湯屋谷弁天社への信仰は、寺院から商家へと引き継がれていったのではないかと想像することができます。

遷座された時期
『紀伊続風土記』における湯屋谷弁天の説明では、同じ地区にある愛宕権現社とともに勧請した時代が不明であるとしています。しかし、上記の事柄から、湯屋谷弁天社は、およそ元禄時代になって公的な弁天社として確立した可能性がありました。
現在、伝わっている湯屋谷弁才天の厨子(ずし)扉には「奉納 享保二年(1717)丁酉七月吉日」とあることから、元禄年間に祠(ほこら)から拝殿を持つ社(やしろ)として整備され、続いて本尊が新調されたと理解することができます。
また湯屋谷弁天社には、明治39年4月8日の日付が入った修理遷座記録札が伝わっています(写真左)。その内容からは、明治39年(1906)に湯屋谷から、荘厳院跡地であった現在の位置に移されたと読み取ることもできます。しかし、明治25年(1892)本の絵図を見ますと、湯屋谷弁天は既に現在の場所に移動していることがわかります。さらにいえば、明治22年(1889)の絵図では弁天社は移動していませんので、およそこの3年の間に移動、遷座したことになります。
つまり明治39年の修理遷座札は単に修理札であることになり、それは、昭和2年10月20日、平成6年10月と続く屋根修理遷座札と同等のものであることがわかります。

2006.12.13

よもやま記
> 高野山七弁天 > 湯屋谷弁天