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綱引(舟引)弁天 高野山七弁天
山内寺院と諸堂


綱引弁天社
綱引弁天社

高福院 承応2年(1653)絵図
高福院
 承応2年(1653)絵図
高福院に描かれる弁天社綱引(舟引)弁天
高福院に描かれる弁天社綱引(舟引)弁天


高福院は照明院に代わっています
高福院は照明院に代わっています。また「天王」とは天王院だと思われます。
明治中期の絵図より。



綱引弁天社前の石灯籠
綱引弁天社前の石灯籠
嘉永7年(1854)10月と刻まれています。

4.綱引(つなひき)・舟引弁天 
所在地:南都銀行高野山支店横
名称について
現在、綱引弁天と呼ばれていますが、『紀伊続風土記』には舟引弁財天として紹介されています。「綱引」の名称がどの文献に載っているのか調査中なのですが、「舟引」との意味自体は大きく変わるものではないと思います。
明治期までは、南都銀行高野山支店の後方に高福院という寺院がありました。高福院は高野三方の内の行人方の寺院として、門や坊舎、倉庫などを持つ比較的規模の大きな寺院だったようです。この高福院の鎮守社としてまつられていたのが、綱引弁天でした。
むかし、高野山がいちじるしく衰退して、食べるものにも事欠く状態となった時期がありました。そのとき高福院の弁才天が、舟に財宝を満載して引っぱってきて、山のお坊さん達に分け与えたのだそうです。こうした伝承から、舟引弁天と呼ばれるようになりました。
弁才天が財宝を持って来るという話は他にもありますのでご紹介しますと、高野山高室院の第九世に大聖阿闍梨というお坊さんがおりました。大聖阿闍梨が弘法大師勧請の天河弁才天を一心に拝んでいますと、密室に弁才天と十五童子が現れて、種々の財宝を授けてくれたのだそうです。そして、弁才天がお帰りになる際、十五童子の内の印鑰童子が高野山の南に位置する大滝村にとどまり、村人はそこに社殿を造営して、弁財天としてまつったということです。
以上、綱引弁天や大聖阿闍梨の話からは、弁才天が水の神というよりは、むしろ財福神としての弁財天の性格が強調されていることがわかります。それは七弁天の祓川、湯屋谷弁天とは少し性格が異なり、室町時代以降にみられるような弁財天信仰の形態を色濃く反映しているものと考えられます。

絵図にみる綱引弁天
江戸期の絵図で高福院を見てみますと、寺院の位置や規模においても若干の変遷があることがわかります。規模の大きな寺院期から、時代が下るにつれ縮小していく様子もうかがえ、最終的には、明治23年(1890)11月19日付けで廃寺届けが出され、敷地は照明院と天王院いう別の寺院に取って代わります。
今回「絵図にみる弁天社」で紹介した絵図の中、唯一、高福院の鎮守として弁天社が描かれているのが、寛政5年(1793)本絵図です(写真左)。他の寺院において鎮守社が描かれている例が極端に少ないとことから、当時、綱引弁天は周知の弁天社であったことがわかります。このことが、主体寺院が廃寺となった後も、綱引弁天社として、そのままの維持されたのではないかと考えます。

近年の歴史
平成2年以前、綱引弁天社は南都銀行高野山支店の裏にまつられていて、ずいぶんと老朽化していたといわれています。それが南都銀行社屋が新築されるにともなって、綱引弁天社も場所を現在の駐車場脇に移されると同時に、社も新築されました。この社殿の中には何種類かの修理札があって、「嘉永七甲寅六月吉祥日 高福院現住瑞巌」のものが古く、社前に設けられる嘉永7年(1854)10月の年号のある石燈籠は、社殿修復時に新調されたものであることが分かります。
その後、社殿は、元治元年(1864)2月22日類焼の憂き目に遭い、明治6年(1873)9月28日に再建されました。この時の再建大願主は青厳寺前官有智で、天王院堂興、さらに発起人が西村平兵衛、林治人となっていますので、高福院が廃絶したことで地区の有志へと引き継がれて再興されていることになります。
明治36年(1903)12月、山内七弁天の縁日が開催された翌年の1月18日には、大工・藤右衛門によって社殿が修繕され、同時に屋根屋・常治良によって屋根の葺き替えが行われています。続く明治39年(1906)3月には、高福院の敷地跡に畝傍銀行高野山支店(現・南都銀行)が開設されたのをきっかけに、まったく新たな大檀主となり、その年の旧10月、銀行の創立者である豊田新八と店長・井上正之祐の両氏によって新しく綱引弁天社が再建されました。

以後、銀行の主催によって、11月の亥の子の日に盛大な法会が行われていましたが、現在では毎月1日と10月に巴陵院による法会と祭が行われているとのことです。

2007.10.19一部更新

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