

元禄6年絵図にみる丸山弁天社の明地。

寛政5年(1793)絵図。「丸山辨財天三尺五寸四方建坪半坪」とあります。

江戸時代中期頃の絵図にみる丸山弁天 西南院絵図。

文化13年(1816)絵図より。
※「高野山七弁天」(斉藤正伸著)によると、現在、丸山弁天には地域で講が結成されており、祭りは弁天通町内会と南小田原町内会とが、交替で毎年十一月の亥の日に行うとしています。さらに亥の日が月に2回あるときは最初の日に行い、月に3回ある時は真ん中の日に祭りを行うとあります。
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丸山弁天
所在地:小田原地区
丸山弁天は、円山弁天とも記す場合がありますが、ここでは『紀伊続風土記』に使われている「丸山」の字を使いたいと思います。ただし、山自体を意味する場合は「円山」とします。
丸山弁天社は、小田原谷、安養院の東側から金剛三昧院へと通じる浄土院谷と呼ばれた谷道の左手の山(円山)にまつられています。江戸時代には、円山の東側の道沿いに湯屋や浴室之池などがあって、その谷筋を湯屋谷とも呼んでいました。七弁天の内、湯屋谷弁天社や門出弁天社の近くにも湯屋がありました。湯屋が設けられる場所はどうしても水の近くで、しかも水量の多い場所を選ばなくてはなりません。そのため、水の神である弁才天がまつられている近くを選んだのかもしれませんし、逆に湯屋の近くに弁天社がまつられるようになったのかもしれません。このことが丸山弁天社にもあてはまるかどうかは今のところ分かりませんが、『紀伊続風土記』では弘法大師によって天女と十五童子が円山に勧請されたのがはじまりだとしています。
高野山絵図から分かること
丸山弁天の社殿は、文化9年(1812)11月11日の造創(再建)で、文政11年(1828)に修繕されたことが『紀伊続風土記』に記されています。『紀伊続風土記』が公刊された天保10年(1839)頃には、すでに丸山弁天社の歴史についてはよくわからなかったようで、弁天社の勧請を弘法大師に託し「当山七弁財天の其の一なり」としたようです。
丸山弁天に関する資料不足は現在も変わらないのですが、ここで元禄6年(1693)の絵図を見てみますと、「院中惣社 辨才天社明地」と明記されているのが注目されます。この「辨天社明地」という意味は、弁天社を建てるために明けている土地と理解することができます。しかし、明地に建てられる社殿自体が新造なのか、それとも再建なのかといったことまでは分かりません。あるいは移築の場合も考えられます。ただ、元禄6年以前の絵図には丸山弁天に関する記述もなく、社殿なども描かれていません。さらに寛文12年(1672)公刊の『通念集』にも丸山弁天は紹介されていませんので、元禄6年頃が丸山弁天社の創建時期とする可能性もあることになります。としますと、丸山弁天を加えて七弁天と呼ばれたというのですから、高野山の七弁天信仰は、元禄6年以降に出来上がったことにもつながっていきます。
院中惣社と谷
次に絵図の記述である「院中惣社」の意味について見てみましょう。江戸時代の高野山は大きく分けて、西院谷・南谷・谷上院谷・本中院谷・一心院谷・五之室谷・千手院谷・小田原谷・往生院谷・蓮華谷など「高野十谷」と呼ばれる10の谷々で構成されており、現在もこれらの谷名で通じています。谷名には「院」が付く場合が多いように、「院中」とは谷を意味しているものと考えられます。つまり丸山弁天の場合、小田原谷の諸寺院(院中)で運営管理する共用的な惣社(弁天社)として認識されていることが分かります。これは同じ山内でも、谷(院中)が固有に組織して湯屋をもっていたことと同じであると考えることができ、丸山弁天社は小田原谷の院中にとっては、重要な惣社であったことが理解できます。
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