

門出弁天社

門出弁天社前の石灯篭銘表

門出弁天社前の石灯篭銘裏

承応2年(1653)本絵図には極楽堂と金剛院は並んで記されています。

天和4年(1684)絵図に描かれる極楽堂。 |
5.門出(かどで)・首途弁天
所在地:五の室福智院駐車場横
弘法大師は入唐(中国に渡ること)するに際して、道中安全を祈って自ら弁才天像を刻んだそうです。その時の尊像が門出(かどで)弁天であると『紀伊続風土記』では記しています。また『紀伊国名所図絵』にも、旅などの道中安全をこの弁才天に祈願すると必ずご利益があるので首途(かどで)弁天と称するとして、『紀伊続風土記』と同様の内容で紹介されています。
石灯篭の銘文
現在、門出弁天社の前には石灯篭が何基かありますが、社殿手前、向かって右側の灯篭台石の表裏には、「奉寄進辨才天女灯籠 極楽堂金剛院堯実建」(写真左)とあります。この内容からは、極楽堂金剛院の堯実という人が石灯籠を寄進したことがわかり、極楽堂金剛院と弁天社は何らかの関係があったのではないかと推測することができます。そこでまず極楽堂金剛院について調べてみることにしました。
極楽堂・金剛院と弁天社
五の室谷にあった極楽堂は、極楽堂・平等智院・金剛院・(また金剛院・明王院・照明院とも)の三ヶ院を総称しての名称だったこと、さらに極楽堂の敷地内に厄除大師堂、金剛院と並んで門出弁天社が建っていたことなどが『紀伊続風土記』の記述により判明します。
極楽堂について『高野山通念集』を見てみますと、極楽堂付近は元来火の地獄だったとし、それを弘法大師が秘法をもって修法したところ清涼の地となり、池の中から丈六の阿弥陀三尊が湧現したといいます。そうしたことからこの地に極楽堂が建てられたとします。
また『高野春秋編年輯録』には、鎌倉時代後期の時宗の遊行上人である他阿派の同心者が極楽堂を建てたとし、慶長(1596〜1614)年中になって真言派の聖方に改宗したとの内容が記されています。
弁天社の勧請
『高野山通念集』の極楽堂に関しての記述には、次のような内容で続いています。
時代は移って、極楽堂が老朽化しはじめた応永11年(1404)6月21日の話です。十阿弥陀仏という人が奥之院で通夜行をしていたとき、廃堂となりつつある極楽堂を再興するようにとの霊夢を見て、再建をこころざすことになります。浄財を募って、ようやく堂を解体しようとしたとき、棟の上に一つの箱があるのに気づきます。その箱を開けてみると、中から極楽堂の縁起が出てきました。それによると、永正(1504〜1520)の頃に極楽堂は焼失したいること、さらに鎮守として厳島明神がまつられていたことなどが記されていました。そんなある日、十阿弥陀仏が厳島の神さまから玉のかんざしをもらった夢を見て、思わず目を覚まして手の中を見ると、まさに夢で見たかんざしがありました。こうして十阿弥陀仏は極楽堂の鎮守社として小社を建立し、厳島の天女である弁財天を新たに勧請しておまつりしました。また『紀伊続風土記』では、この十阿弥陀仏が極楽堂の金剛院を建てたとも記していますので、金剛院や弁天社は室町時代に造営、あるいは再建された可能性があることになります。
以上、こうした伝承からは、直接「首途・門出」の名前に由来する事柄が出てこないのですが、資料などから判断するかぎり、十阿弥陀仏が室町時代に勧請した厳島弁財天が、後に首途・門出弁天などと呼ばれるようになったのではないかと推測することができます。
金剛院の堯実が、門出弁天社に石灯籠を寄進したのがいつ頃であったのかは定かではありません。しかし、元禄6年(1693)本以降の絵図になると、極楽堂は忽然と姿を消し、その後、極楽堂の後には「大師堂(厄除)」が描かれるようになります。つまり、石灯篭は元禄6年以前に寄進されたものであることがわかります。
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