| 伽藍 絵図でみる蓮池の歴史 | ||
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| 伽藍名所旧跡 |
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![]() 蓮池を伽藍北側から見ています。 この写真からは、中島へ渡るのに橋ではなかったことが分かります。 しかも、南側からも中心の社に向かって道がありました。 |
![]() ものすごい量の蓮でうめ尽くされています。現在では想像もつきません。 |
| 絵図でみる蓮池の歴史 | |
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鎌倉時代以降の絵図の写しです。 画面右下に描かれるのが現在の蓮池の位置に相当します。 池の中央には桜と思われる大樹が花を咲かせているのがわかります。 また池の畔には鹿やイノシシが描かれ、動物たちの水飲み場であったとも考えられます。山内では動物などの殺生が禁止されていたことにより、こうした情景が描かれているのだと思われます。 |
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この時期には単に丸い池として描かれています。 また絵図からは、伽藍金堂が寛永7年(1630)に焼失したままの状態であたことや大塔は既に再建されていることがわかります。 |
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江戸時代も中期の絵図になると池の形状も明確に描かれています。 金堂が仮堂として描かれており、記録からは元禄6年(1694)時点に仮堂であったことがわかり、元文元年(1736)完成していますので、この間に描かれた絵図であることがわかります。 |
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江戸時代も後期頃になると、池自体もかなり整備され、この時期には「金堂池」と呼ばれていたことが、判明します。また池の中央には島が整えられ、三方からの道が付けられています。 この時の池は方形となっていますが、善女龍王社は描かれていません。 |
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この時期になって池の中央には、善女龍王の社が描かれるようになります。 明和8年(1771)瑞相院の僧・慈光によって勧請されたことによるものです。 一時期方形になった池の形も、何んらかの理由により自然な形に戻っているようです。 |
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天保14年(1843)以前 江戸時代も末期になると、絵図自体、遠近法で描かれていますので、よりわかりやすくなります。 ここで注目されるのは、池には蓮が描かれていることです。また『紀伊続風土記』(天保10年〔1839〕完成)では「蓮池」として紹介していますので、こうしたことから推測すると、江戸時代末期頃から「蓮池」と呼ばれるようになったと考えられます。 |
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ほぼ現在の蓮池の形となっていますが、中島の善女龍王社へは二方向から渡ることが可能でした。この形は昭和時代まで続きます。 BACK|NEXT |