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伽藍根本大塔年表 
西暦
年号
月日
備考
典拠
816 
弘仁7年  6月19日 弘法大師空海(以下大師)、高野山下賜を上表する。 『続遍照発揮性霊集補闕抄九』
・『高野雑筆集巻上』
7月8日 高野山下賜の勅許が下る。 ・『御手印縁起』 
・『高野雑筆集巻上』 
  高野山の開創に着手。弘法大師の弟子泰範・実恵の両師を高野山に派遣し開創に着手する。 『高野雑筆集巻上』
818
弘仁9年 大師「高野建立壇場結界啓白文」表し、壇場を結界する 『遍照発揮性霊集九』
819
弘仁10年 6月1日 杣人南虎峯(持明院上山)に入って大塔心柱用材を土木の役人である僧俗16人で伐採し、6月28日心柱材を壇場に運ぶ。 『南山秘記』
834
承和1年 8月23日 大師、大塔等建立の為、「勧進奉造仏塔知識書」を表す。毘盧遮那法界体性塔二基(大塔・西塔)及び胎蔵金剛界両部曼荼羅の建立に伴い、その費用を勧進する。 『続遍照発揮性霊集補闕抄八』
836
承和3年 7月1日 大塔造塔料施入。実恵僧正の奏請により造塔料として加賀の国税を賜る。 『金剛峯寺雑文』
861
貞観3年 7月15日 真然大徳の奏請により、国税稲四千五百束が下賜される。 『金剛峯寺雑文』
862
貞観4年 10月9日 真然大徳の奏請により、修理料不足のため重ねて稲二千束が下賜される。 『金剛峯寺雑文』
876
貞観18年   この頃大塔完成すると伝える。貞観17年3月21日付『真然僧正自筆日記』に実恵僧正の助力をもって堂舎を造り終えたことが記される。また大師入定後50年を経て建立したとも伝える。さらに着手より42年後の貞観17年完成との説もある。嵯峨天皇御願で仁明天皇御宇になり、実恵大徳、真然僧正に造立の宣旨が下るとする。 ・『金剛峯寺雑文』
・『金剛峯寺堂塔建立由来書』
・『高野春秋編年輯録』
924
延長2年 12月13日 観賢僧正の奏請により毘盧遮那宝塔料税稲千束が下賜される。 『金剛峯寺雑文』
993
承平3年 1月21日 一説に大塔修理完成とも。 『金剛峯寺雑文』所収『平珍宝塔供養願文』
965
康保2年 6月17日 雅真僧正の奏請により大塔修理料として旧例によって税稲が充てられた。 『高野春秋編年輯録』
994
正暦5年 7月6日 大塔焼失。大塔に落雷、伽藍御影堂を残して全焼し、寺院に類焼。創建後約118年後に焼失。  『高野興廃記』
・『高野春秋編年輯録』
1006
寛弘3年 10月11日 仁海僧正「大塔再建知識願文」を表し奏請するが、勅許されなかった。その願文によると、宝塔高十六丈、内陣柱十六本には両部曼荼羅の諸尊を描き、外陣柱十二本の内側にも柱絵を描くことが予定されていた。五仏の像高なども規定している。 『金剛峯寺雑文』所収「金剛峯寺解案」
1007
寛弘4年   一説に大塔五仏造立とする。大仏師康尚作と。仁海僧正の「大塔再建知識願文」によると五仏造立の見積が記されているが、結果的には事業は開始されなかった。 康尚の事績
1088
寛治2年 2月22日 大塔再建の院宣下る 。
白河上皇の御幸があり、その折り大塔再建の院宣が下るが、その後沙汰無く再建事業は進まなかった。
・『高野山御幸御出記』
・『大塔興廃日記』
1095
嘉保2年 2月19日 大塔再建開始。
寛治2年の院宣より8年後に再度院宣が下り、2月19日土木工事が始まる。
『高野興廃記』
3月7日 大塔用材切り出し杣始。   『金剛峯寺焼失修復注進状草』
6月7日 手斧始(木造始) 。
国司藤原朝臣朝輔、大工東大寺工賀茂成(圓)国。
『金剛峯寺焼失修復注進状草』
1096
永長2年 8月21日 大塔上棟。心柱と下柱が組上がった。 『高野春秋編年輯録』
1098
承徳2年 4月1日 大塔再建工事中断。内裏飛香舎の造営があり、工匠すべてが上京し工事が中断した。 『紀伊続風土記』
1099
康和1年 11月1日 檜皮葺始まる 。棟梁(信国)が来なかったので小工等で葺き始め、翌年夏に終わる。 『紀伊続風土記』
1100
康和2年 7月7日 柱絵を描く。京都より絵師播磨講師の子息が来山し、30日間で柱絵を描く。内陣柱十六本に両部曼荼羅諸尊を描き、外陣十二内方に図絵したとする。 『高野山根本大塔興廃日記』
10月25日 大塔落成 『高野春秋編年輯録』
1102
康和4年 5月5日 大塔五仏御衣木杣始 。同年2月作業用仏所を設ける。 『金剛峯寺焼失修復注進状草』
1103
康和5年  3月11日 大塔五仏御衣木加持手斧始。仏師五人法印円成(勢)弟子講師原造之、仏師目代行事仲原、有忠、中誉 『金剛峯寺焼失修復注進状草』
10月25日 胎蔵五仏造立し、大塔内に安置する。大日居高八尺八寸、座高五尺五寸、光背一丈五尺五寸。四仏居高七尺、座高四尺五寸、光背一丈五尺。 『紀伊続風土記』
11月25日 大塔落慶供養厳修 。正暦五年の焼失より109年後に再建される。 ・『中右記』
・『紀伊続風土記』
1106
嘉承1年 7月6日 勅許により供僧3人を加え、合計15人となる。 『高野春秋編年輯録』
1149
久安5年 5月12日 大塔に落雷全焼。五仏中尊の御首、脇侍三躰、仏具等を運び出す。康和5年の再建から46年後に焼失。 ・『御室御所覚法法親王高野山参籠日記』
・『金剛峯寺焼失修復注進状草』
5月28日 大塔再建宣旨下る。御室御所覚法法親王、座主寛信、検校行恵両師の懇請による。 『大塔興廃日記』
7月9日 大塔再建事業開始。修理奉行には平忠盛が宛てられた。大工は散位藤原朝臣国任。杣始も同日。 『高野山大塔事始注文』
1151
仁平1年 3月19日 大塔上棟 『高野春秋編年輯録』
1153
仁平3年   1月13日 大塔五仏御衣木加持(胎蔵五仏)。仏師円信法眼が造立する。  『高野春秋編年輯録』
1月15日 大塔修理奉行平忠盛卒去 。父忠盛に代わり平清盛が奉行となる。 『高野春秋編年輯録』
1155
久寿2年 3月7日 事故により大塔心柱倒れる 。大塔心柱を建てる際に南方に倒れ、死傷者89人を出す惨事となる。 『高野春秋編年輯録』
1156
保元1年 4月29日 大塔落慶供養厳修。久安5年の焼失より七年後に再建される。 『高野春秋編年輯録』
1191
建久2年 1月5日 大塔修理。修理奉行には紀伊守藤原朝臣経房。大工宇野先生、紀伊先生、番匠19人、屋工6人。檜皮葺師等は京都より来る。 『大塔興廃日記』
1198
建久9年   大塔修理落成(第1回)。建久2年からの修理が完了する。保元1年の再建より42年後に修理。 『大塔興廃日記』
1222
貞応1年 5月12日 大塔修理料勧進下知 。大塔棟柱などが傾き、欄楯が朽ち落ちる。良印上人の懇請により、勧進の許可が下る。 『高野春秋編年輯録』
1223
貞応2年 2月16日 大塔修理料を勧進する 。前陸奥守平義時の奉書をもって大塔修理料の勧進を行う。 『高野春秋編年輯録』
7月 大塔修理の院宣を賜り、京都、鎌倉に奏請する。 『高野春秋編年輯録』
1238
嘉禎4年
(暦仁1年)
3月19日 大塔修理落成(第2回)。良印上人大塔修理発願より16年を経て大成。建久9年の第1回修理より40年後に修理。 『高野春秋編年輯録』
1308
延慶1年   大塔修理の院宣を賜り、修理料として淀津の関米を賜る。 『紀伊続風土記』
1309
延慶2年 4月11日 昨年に重ねて院宣を賜り、備後国を修理料となったが、妨害があり不成就。證道上人全国を勧進。 『紀伊続風土記』
1320
元応2年 4月2日 大塔修理落成(第3回)。修理事業を開始して16年で大成する。嘉禎4年の第2回修理より82年後に修理。 『高野春秋編年輯録』
1444
文安1年 6月22日 大塔修理。大塔の下層部の屋根替(檜皮葺)開始。 施主泉州草部屋道普。 『高野春秋編年輯録』
1446
文安3年 8月 大塔修理落成(第4回)。文安1年より始まった屋根替大成する。元応2年の第3回修理より126年後に修理。 『高野春秋編年輯録』
1510
永正7年頃   大塔、雨露が漏り朽損著しく、木食阿本上人修理料を勧進する。 『紀伊続風土記』
1521
大永1年
(永正18年)
2月12日 大塔焼失。寺院より出火、伽藍諸堂悉く焼失し、全山壊滅状態となる。保元1年の再建から365年後に焼失。 『高野山焼失記』
 1521
大永1年 4月2日 大塔再建の綸旨を賜る。阿本、阿純の両木食上人を勧進のため諸州に向かわせる。阿本は中国地方、阿純は畿内を勧進する。 『紀伊続風土記』
1529
享禄2年 阿本上人により材木や大工の仮小屋が支度された。 『高野春秋編年輯録』
1532
天文1年 3月 芸州吉田を勧進する 。阿本上人芸州に赴き、毛利元就を大檀主とし領国を勧進する。 『高野春秋編年輯録』
1557
弘治3年 10月27日 毛利元就大塔礼料を奉納。阿本上人の勧進による。 『高野春秋編年輯録』
1570〜1592
元亀天正の頃   大塔下層のみ完成。天文年間ともいう。 『高野春秋編年輯録』
1564
永禄7年 5月21日 阿本上人遷化 。芸州吉田の旅宿で遷化したとの連絡があった。その後志を継ぐものが無く、大塔再建事業頓挫する。 『高野春秋編年輯録』
1592
文禄1年 7月14日 秀吉より大塔再建の台命が下る。木食応其上人より、豊臣秀吉が母の滅罪生善、除病与楽の為に再興するとの連絡が入る。 『高野春秋編年輯録』
1594
文禄3年 7月26日 台風により大塔表柱折倒する。阿本上人等の勧進によって建てられた大塔下層部の表柱が、台風で折れ倒れた。 『高野春秋編年輯録』
1595  
文禄4年 1月21日 大塔修理手斧始 『高野春秋編年輯録』
9月8日 大塔修理落成(胎蔵五仏)。本尊は文禄年間(1592〜1595)に大仏師康正によって造立された。 ・『紀伊続風土記』
・『本朝大仏師系図』
1597
慶長2年 3月21日 大塔落慶供養厳修。大永1年の焼失より76年後に再建される。 『高野春秋編年輯録』
1630
寛永7年 7月21日 大塔出火。大風により大塔心柱の根元が動き、摩擦によって出火したが、発見が早く消化。根元に泥土をいれる。 『高野春秋編年輯録』
10月7日 大塔に落雷。暫くして塔腰部より猛火が起こり焼失。伽藍諸堂多くの寺院が焼失。大塔五仏の両手膝部のみ取り出された。慶長2年の再建から33年後に焼失。 『高野春秋編年輯録』
1631
寛永8年 1月16日 大塔再建を幕府に懇請する  
8月2日 大塔再建許可される。 将軍家光より再建の沙汰があり、再建奉行に本多因幡守、戸川土佐守が任命された。 『高野春秋編年輯録』
1635
寛永12年 10月3日 再建手斧始。大工棟梁中井大和椽藤原長次 『紀伊続風土記』
1641
寛永18年 6月6日 基壇工事 『紀伊続風土記』
1642
寛永19年 8月2日 大塔五仏造立に伴い御衣木加持  ・『紀伊続風土記』
・『本朝大仏師系図』
10月中旬 大塔落成  『高野春秋編年輯録』
1643
寛永20年  5月 大塔五仏造立。仏師法橋康音親子。彩絵師徳翁雅楽亮。 『紀伊続風土記』
6月7日 大塔落慶供養厳修。寛永7年の焼失より13年後に再建される。 『紀伊続風土記』
6月8日 内儀の落慶供養を行う。学侶により内儀の大曼荼羅供を厳修する。 『高野春秋編年輯録』
1746 延享3年 6月27日 大塔に落雷あり。心柱が破裂し、径八寸に二間程の一部が吹き飛んだ。張り板も大音響によって外れ、仏天蓋4つばかりがくすぼったが、火災は免れた。日付については6月28日との記録もあり。 ・「金剛峯寺日並記」
・八王子金剛院宝篋印塔内心柱片書き付け
1843
天保14年 9月1日 壇上宝蔵の軒先から出火し大塔焼失。五仏の内、何躰かが運び出される。寛永20年の再建から200年後に焼失。 『高野山大塔興廃略記』
1844
天保15年    (弘化1年) 2月 大塔再建を幕府に懇請する 。検校研龍再建の台命を幕府寺社奉行(久世出雲守)に懇請する。 『高野山千百年史』
1846
弘化3年   幕府より白銀三千枚下賜される。   『高野山千百年史』
1851
嘉永4年   江戸護持院真淳金五百両寄進される。 『高野山千百年史』
1852
嘉永5年   大塔中尊大日如来坐像修復。修理仏所高野大仏師法眼摂津により修復され仮堂に安置。「嘉永五壬子 大堂四佛内高野大仏師法眼摂津作之」(右膝内部墨書銘) ・「高野山の仏教美術」所収「右膝内部墨書銘」
・『高野山千百年史』
1853
嘉永6年 6月26日 大塔五仏中尊大日如来像御衣加持が大会堂で執行。仏工川本右京造立。翌年6月完成。法界定印の御手と両膝部は焼け残り部材を使用すと。 ・『高野山大塔興廃略記』
・「大塔五仏尊像紙背」
1854 安政1年   大塔五仏修復完了。仮堂に安置。 『高野山千百年史』
1855 安政2年 11月 大塔五仏の内、宝生如来像が山本弘慶によって造立される。 ・「大塔五仏尊像紙背」
1856 安政3年 11月 大塔五仏の内、阿シュク如来像が山本弘慶によって造立される。 ・「大塔五仏尊像紙背」
1857 安政4年 11月 大塔五仏の内、無量寿如来像が山本弘慶によって造立される。 ・「大塔五仏尊像紙背」
1858 安政5年 10月15日 大塔五仏の内、不空成就如来像が山本弘慶によって造立される。五仏を大塔仮堂に安置し開眼供養を行う。 ・「大塔五仏尊像紙背」
1878
明治11年   一岳上人大塔再建の勧募をおこなう。阿波箸蔵寺前住一岳上人大塔再建の日程を決定し、篤志を勧募するが不成就。 『高野山大塔興廃略記』
1879
明治12年   大塔基壇工事を始める。  『根本大塔略縁起』
1882
明治15年   『根本大塔略縁起』が発行され、大塔再建の宣揚をはかる。 『根本大塔略縁起』
1月15日(19) 大塔再建料として明治天皇より金壱千円下賜される。 ・『高野山千百年史』
・『弘法大師壱千百年御遠忌紀要』
9月 大塔再興を果たせないことから楠玉諦が再建を発願して『高野山大塔興廃略記』(東京高野山出張所蔵版)を発行して、大塔再建の宣揚をはかる。 ・『仏書解説大辞典』
・『密教大辞典』
12月9日
(3月9日)
大塔再建料として皇太后より金二百円下賜される。 ・『高野山千百年史』
・『弘法大師壱千百年御遠忌紀要』
1883
明治16年   大塔手斧始。大工棟梁名古屋伊藤平左衛門、高野山三谷鍵助等が当るが、後に工事自体が中止となる。 『高野山千百年史』
1930
昭和5年 12月19日 奉賛会を設立して大塔再建に協賛することが決定する。会長元内閣総理大臣清浦奎吾伯爵。 『弘法大師壱千百年御遠忌紀要』
1932
昭和7年 初頭 大塔内壁画堂本印象画伯に依頼。黒板勝美博士の推挙により、堂本印象画伯に揮毫依頼する。堂本印象画伯は昭和6年と記している。 『弘法大師壱千百年御遠忌紀要』
・『高野山根本大塔壁画と柱絵』
2月1日 大塔の建築大林組に落札  『続真言宗年表一』
3月26日 大塔再建工事開始。設計者京都帝国大学教授天沼俊一博士、武田五一博士。建築技師大浦徳太郎技師。 『弘法大師壱千百年御遠忌紀要』
8月8日 大塔立柱式 ・『弘法大師壱千百年御遠忌紀要』
・『高野山根本大塔の研究』
1933
昭和8年 3月28日 大塔基礎工事完了。高十六丈、四方十三間。鉄骨鉄筋コンクリート構造、外装木材朱塗仕上げ。本尊五仏像安置する。 ・『弘法大師壱千百年御遠忌紀要』
・『高野山時報六九〇号』
1935
昭和10年 4月18日 大塔相輪取り付け工事完了  『続真言宗年表一』
1936
昭和11年 1月21日 大塔内壁画八祖像堂本印象画伯に正式依頼。大塔完成局理事長宮崎忍海師、紀州白浜の堂本印象画伯別宅に訪問し、八祖像揮毫方法を決定する。 『弘法大師壱千百年御遠忌紀要』
9月28日 八祖像の一部6日がかりで登山。塔内の四隅に安置する。 『高野山時報七八二号』
1937
昭和12年 4月21〜5月10日 大塔落慶供養厳修。天保14年の焼失より94年後に再建される。 『弘法大師壱千百年御遠忌紀要』
1937  
昭和12年   4月6日 堂本印象画伯大塔内壁画八祖像完成。  ・『高野山根本大塔壁画と柱絵』
・『六大新報一七九六号』
10月17日 大塔勅額「弘法」奉掲式。4月12日勅額「弘法」が今上陛下より下賜される。 ・『弘法大師壱千百年御遠忌紀要』
・『続真言宗年表一』
1938
昭和13年 11月3日 堂本印象画伯大塔内壁面装飾花鳥画完成 。  『続真言宗年表一』
1940
昭和15年 大塔内柱絵十六大菩薩像堂本印象画伯に揮毫促進依頼。京都堂本印象画伯宅に訪問し、十六大菩薩像の揮毫の促進を依頼する。 『弘法大師壱千百年御遠忌紀要』
1月 堂本印象画伯十六大菩薩像下絵に着手  『高野山根本大塔壁画と柱絵』
1941
昭和16年 1月28日 堂本印象画伯十六大菩薩像下絵完成。コンクリート柱に独特な漆を塗る。 『高野山時報九九四号』
8月8日 堂本印象画伯十六大菩薩像彩色に着手   『高野山根本大塔壁画と柱絵』
2月25日 十六大菩薩像すべてに眼睛を点じて完了する。 『高野山根本大塔壁画と柱絵』
4月7日 十六大菩薩像開眼法要 。大阪高島屋にて開眼供養を厳修する。 『六大新報一九六八号』
4月8日〜12日 大阪高島屋にて十六大菩薩像を展観する  『弘法大師壱千百年御遠忌紀要』
4月下旬 十六大菩薩像柱貼付作業。加州金沢住人の表具師岡田常吉他五名にて十六大菩薩像を貼り付ける。 「修理墨書銘」金剛愛菩薩裏打より発見
1955
昭和31年 4月16日 十六大菩薩修復 。京都市山川文吾他5名にて修理を施すが詳細は不明。 「修理墨書銘」金剛薩た裏打より発見
1995
平成7年 12月23日〜 十六大菩薩像修復開始 大塔内柱より十六大菩薩像本紙表具取り外し。  
1996
平成8年  9月 大塔外装朱彩塗り替え工事完了。   
9月31日 十六大菩薩像柱貼付、彩色修正作業等全行程終了。  
10月11日 大塔修復落慶供養厳修  

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