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大門の二枚の柱聯(ちゅうれん)


大門
大門

検知處々之遺跡
検知處々之遺跡

不闕日日之影向
不闕日日之影
山内寺院と諸堂

大門に掲げられている
二枚の柱聯(ちゅうれん)とその書体について

 柱聯(ちゅうれん)とは、柱や壁に相対に掛けて飾りとする長い書画の板のことで、主に詩文などを書く場合が多いようです。 大門の正面の太い柱には、この柱聯が二枚掲げられていますが、向って右には「不闕日日之影向」、左は「検知處々之遺跡」と各々一枚の板に彫られています。
 これは「日々影向文」と呼ばれるものの一部で、全文は「卜居於高野樹下 遊神於都卒雲上 不闕日々之影向 検知處々之遺跡」となります。
 その意味は、弘法大師は高野山を入定の地と定め、弥勒の浄土である都卒天の雲の上におりつつ、弘法大師のいわれのある旧跡や遺跡に日々影向する、といったふうに解釈することが出来るかと思います。「弘法井戸」などといった弘法大師にまつわる伝説はたくさんありますが、こうした伝説の場所にも弘法大師は現れ、今も人々を救っておられるという、いわゆる弘法大師入定信仰を意味するものと考えられます。

出典
では、この「日々影向文」の出典ですが、弘法大師のお弟子さんで高野山第二世である真然大徳(804〜891)が承和3年(863)9月に撰述(せんじゅつ)したとされる『阿波国大瀧寺縁起』というものの中に、この一文が出てきます。
 また、東寺の勝実僧正というお坊さんが讃岐善通寺の別当職として赴任した折り、大師自筆の「日日影向文」を善通寺で発見したとする説があります。これは、弘法大師の伝記絵巻である「高野大師行状図画」十巻本(写真左は親王院本)の「遺跡影向」段に記されています。
 さらにまた、弘法大師が勝実僧正の夢に現れて「日日影向文」を授けたという説などもあります。 

書体について
 柱聯に記される文字の書体ですが、柱聯の裏面に(左の写真)書かれているように、後宇多上皇宸筆の臨書とされています。また法性寺流の書法であるとも言われています(『高野山の書』楠見敏雄著)。
 後宇多上皇は、徳治2年(1307)嵯峨寿量院において出家され、正和2年(1313)8月には高野山にも行幸し七日間参籠(さんろう)、さらに正和4年(1315)、『弘法大師伝一巻』を撰述されるほど弘法大師に対する信仰と造詣が深かったことがわかります。
 注目されるのは、高野山行幸を記録した『後宇多院御幸記』の冒頭に、「日々影向文」と内容的に同じ事柄が記されており、上皇周辺、ないしは、この時代における大師影向信仰の隆盛を示しているものと思われれます。
正和2年(1313)9月の『後宇多院御幸記』には、
「夫以。高野山者。古佛経行之霊跡。三密相応之道場也。仏故高祖大師雖卜居於縛日羅智門之樹下。遣神於梅■里那之天上。眷顧遺跡於處々。不欠影向日々。以下略」とあります。

柱聯の裏面
柱聯の裏面
『高野大師行状図画』親王院本「遺跡影向」
『高野大師行状図画』親王院本「遺跡影向」

勝実僧正が「日々影向文」を発見した場面
勝実僧正が「日々影向文」を発見した場面
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