

昭和元年の金堂炎上

根津嘉一郎氏の書簡。
明治45年(1912)3月9日付
根津から宝物館建設担当の藤村密幢宛の書簡で、貿易商、森村市左衛門(1839〜1919)が宝物館建設発起人に参加する約束ができたので、金剛峯寺座主名で願い書を出すようにとの事が記されており、さらに追伸として来る明治48年(大正4年)までに高野鉄道を延長する予定で、技師等にも手配中であることを各寺院に伝えるよう記している。 |
高野山と火災
高野山は弘仁7年(816)に弘法大師空海によって開かれて以来、長い歴史の中で栄枯盛衰を繰り返しつつ、法灯を護持してきた真言密教の一大道場です。現在では山内寺院117ヶ寺がその伝統をうけついでいますが、もっとも多い時には7千坊を数えた、ともいわれています。
高野山の文化財の歴史は、火災をはじめとした災害との戦いともいえるものでした。山内寺院の大半が焼失したと伝える大火災だけでも、高野山の歴史上では4度にも及び、数多くの仏像・仏画などの宝物、今日で言う文化財が失われたことは想像に難くありません。
また高野山の文化財にとっては、明治時代はさらなる苦難の時期ともなりました。明治4年(1871)の「版籍奉還」による高野山寺領2万1千石の返還、明治6年(1873)の山林3千ヘクタールの返上などによって高野山は経済的基盤を失い、さらに「廃仏毀釈」の荒波と、それに追い討ちをかけることになった明治21年(1888)3月23、4の両日の大火災により、文化財が焼失、散逸したことが知られています。
それでもなお、現時点での山内の文化財数は、国宝23件、重要文化財182件の量を誇っています。
根津嘉一郎と高野山
明治30年(1897)に古社寺保存法が制定されたことによって、高野山の宝物も約11件が旧国宝(明治30年12月28日付)に指定されました。これに伴って、山内各寺院所蔵の宝物の保存や、文化財を広く一般に公開するため宝物館の必要性が、徐々に認識されていくことになります。
明治43年(1910)1月、後に日本の鉄道王とも呼ばれた根津嘉一郎氏が、高野登山鉄道(株)の取締役となる前年に、重役数名と共に高野山に登山することがありました。根津氏の登山目的そのものについては詳細な記録は残っていませんが、おそらく、高野山までの登山電車を開通させるに当たっての交渉があったものと想像することができます。
この時、今後の高野山護持についても協議が及んだらしく、高野山側の希望であった宝物館設立計画を披露したところ、根津氏が大いに賛同したとされ、これをきっかけとして、高野山の宝物館設立事業が始まることになります。
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