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 近代高野山交通史年表
近代交通の歴史



街道
 高野山への登山道は、古くは七口と呼ばれて、七つの街道がありました。街道のそれぞれに名前が付いていて、大門口(町石道)、不動坂口、黒河口、龍神口、相の浦口、大滝口、大峰口と呼ばれていました。
 これらの七口の内、古来より信仰の道として頻繁に利用されたのが、大門口である町石道でした。ところが生活物資などを運搬するのには、町石道では遠回りであることことから不便でもありました。
 江戸時代の初め頃、応其上人(1537〜1608)によって橋本(橋本市)の紀ノ川に橋が架けられました。その頃より大阪側(橋本市)からの一番近道である不動坂口(京・大阪街道-学文路〜河根〜作水〜神谷〜不動坂-)が栄えるようになったと言われています。

新街道
明治時代になって汽車が(大阪市〜王子〜)五條〜和歌山間に開通し(明治33年)、高野口駅ができたことにより「新高野街道」が整備され、参詣登山者の流れは一変しました。この路は馬や牛車、荷車などが通ることができたので大変な賑わいとなりました。それに伴い、山駕籠(カゴ)や尻押しなどの商売も繁盛したようです。

西暦 年 号 月 日
事 項
1285 弘安8年 慈尊院から山上に至る百八十町石が完成。
1880 明治13年 この年まで、山駕籠(カゴ)の山内の立ち入りは禁止されていた。
1881 明治14年 奈良県五條市から高野町富貴への道が拡幅された。
1883 明治16年 神谷〜高野山間のカゴ賃は55銭であった。当時の米一升は約6銭。
1888 明治21年 この年、九度山から大門まで人馬道を開設しようとしたが断念する。
1891 明治24年 国鉄和歌山線 王子〜高田間開通する。
1892 明治25年 4月 高野山〜椎出〜九度山までの木馬(きんま)道用の借地契約が結ばれる。
1896 明治29年   南和鉄道により 高田〜大和二見間開通する。
2月 高野鉄道株式会社を創立し高野線の工事を始める。
1898 明治31年 1月 高野鉄道株式会社による堺東と狭山間が開通し営業を開始。
5月 蛇柳より求聞持堂までの千有余間に荷物運搬用道路として寄付金によって新道を開く。
4月11日 紀和鉄道橋本駅開業。紀和鉄道は、明治40年国鉄となった。
1900 明治33年 11月25日 紀和鉄道の和歌山〜五條間が全通する。明治34年3月名倉(高野口)駅ができて、椎出・神谷・不動坂・高野山へとつながる「新高野街道」が開けた。
1901 明治34年 1月 矢立辻までの車道新設資金を大阪市の大師講に募集するが、結果、車道は出来なかった。
3月29日 紀和鉄道名倉駅(高野口)開設。
1902 明治35年 12月 九度山〜椎出間の道路改修に南海鉄道・紀和鉄道が資金協力する。
1903 明治36年 1月1日 紀和鉄道名倉駅を高野口駅と改称。
1904 明治37年   紀和鉄道が関西鉄道と合併。
8月28日 九度山の丹生川に架かる橋銭徴収の「赤瀬橋」が完成。
1905 明治38年 4月 高野山から九度山に至る林道が開通し、開通式を神谷で開催する。
1907 明治40年   関西鉄道(和歌山〜奈良線)が国鉄に買収される。
9月 高野登山鉄道株式会社が創立され、高野山まで鉄道を敷くことを計画する。
11月 高野鉄道と高野登山鉄道が合併。
1910 明治43年 7月12日 高野索道株式会社設立(椎出〜大門間)。〜昭和35年
1911 明治44年 6月 椎出〜大門間に索道が高野山索道会社により設けられた。6.431キロメートルを1時間20分で運転。昭和35年廃止。 広告 明治45年6月創業との記録もあり。
1912 明治45年 5月26日  この年、五條市二見〜富貴間に大和索道が通じる。昭和34年終業。
6月23日 高野索道開業通式が行われる。
1912 大正1年 11月 高野山登山鉄道、大阪汐見橋より河内長野間開通。
1913 大正2年    この年、和歌山県で、初めて3台の自動車が走る。
4月1日 和歌山県の道路体系が施行され、主要な街道は県道として整備されるようになる。
7月 高野山営林署が高野山〜九度山間の森林軌道を完成させる。明治42年着工。
9月1日 和歌山水電島村社長、技師四.五名と共に登山高野山上に達する電車の終点に関し踏査を行う。高野登山鉄道(根津)と和歌山水電社(島村)との間で合議がなされ、高野登山鉄道は終点駅橋本から高野口までを延長し、和歌山水電は高野口より椎出にむけ鉄道を敷設する計画がなされる。
1914 大正3年 女人堂〜椎出間の道を県道として許可を得る。県より5千円補助金が下付され、道幅一間半に拡張し、秋に完成とも。
11月29日 女人堂〜椎出間の高野街道の改修工事が竣成し、午後3時より極楽橋にて開通式を挙行。
1915 大正4年 3月1日 高野山登山鉄道が汐見橋から橋本まで開通する。大正14年には椎出まで延長。昭和4年極楽橋、同5年ケーブルカー開通。
3月31日 九度山〜高野口の道路拡張工事完了。
4月 高野山登山鉄道株式会社が大阪高野鉄道株式会社と改称。
   この頃、山内の山駕籠(カゴ)は約200人、尻押し、荷物持ちは約250人ほどとなる。写真資料
1917 大正6年 9月 高野大師鉄道会社が橋本〜高野山大門口間に鉄道敷設工事を行うために創立された。高野登山鉄道とは異名同体である。
12月 高野山(愛宕谷)〜野迫川間に索道が十津川索道株式会社により設けられ、十津川索道と呼ばれたが、大正14年頃(昭和の初め頃とも)中止となる。大正2年、あるいは7年の創業との説もあり。
1919 大正8年 4月15日 高野山登山自動車株式会社により、高野口駅より椎出までの間を3台の乗合自動車で運行を始める。国による道路法施行の認可手続きが行われ、従来、県道と呼んでいた道路が実質的な県道として認められた。これによって、県内の県道数が39路線であったのが73路線へと拡張したとする。国による道路法施行の認可手続きが行われ、従来、県道と呼んでいた道路が実質的な県道として認められた。これによって、県内の県道数が39路線であったのが73路線へと拡張したとする。
1920 大正9年 4月1日 国による道路法施行の認可手続きが行われ、従来、県道と呼んでいた道路が実質的な県道として認められた。これによって、県内の県道数が39路線であったのが73路線へと拡張したとする。
1921 大正10年   紀和索道株式会社(大正7年頃創業)により橋本市の妻から野迫川村の野川まで紀和索道が通じる。昭和25年廃止。
12月12日 高野登山鋼索鉄道の敷設が金剛峯寺側とで決定。椎出より山上女人堂までを鋼索鉄道(ケーブルカー)と自動車で結ぶ計画であった。発起人は富田林中村信昌他数名。
1922 大正11年 2月末頃 西院谷善集院より谷上正智院前までの約160間の区間に、幅9尺の中学校物資運搬用人馬道が整備される。
4月3日 高野口から九度山に向かう、紀ノ川に鉄橋が架けられる。
9月 大阪高野鉄道と南海鉄道が合併し高野線が南海鉄道の経営となる。
9月 南海鉄道と高野大師鉄道が合併する。
11月 女人堂〜神谷間の街灯が南山道友会によって設けられた。
1924 大正13年 12月25日 南海鉄道高野線、学文路〜九度山間開通。
1925 大正14年   高野山(愛宕谷)〜野迫川間の索道の営業が中止となる。大正6年始業。
3月1日 高野山登山自動車株式会社が高野参詣自動車会社と合併する。
3月15日 椎出〜神谷〜極楽橋間に高野山参詣自動車会社が自動車専用道路を新設し、乗り合い自動車として高野山参詣自動車の営業を開始する。乗客用22輌、貨物4輌。
3月28日 高野山電気鉄道会社(高野山電車)が設立される(高野下〜高野山までの敷設)。
7月 南海鉄道高野線、九度山〜高野下間開通し、大阪難波より直通となる。 広告
1928 昭和3年   この年、和歌山市内に初めて乗り合いバスが登場したとする。
6月18日 高野山電気鉄道会社により、高野下〜紀伊神谷間が開通する。
9月3日 この頃高野山で貸自転車業がはじまる。
1929 昭和4年   この年、極楽橋〜女人堂までの「高野登山索道(ロープウエー)」が計画され工事がはじまったが、完成しなかった。
また5月1日には、高野口から名古曽、九度山、河根、神谷、尾細、西郷を経て極楽橋に至る新線8.964キロメートルの索道設置許可が取得された。
奥之院茶所(頌徳殿)裏より、覚鑁堂南を通り中の橋へ至る参道が新設された。
2月21日 高野山電気鉄道会社により、高野下(椎出)〜極楽橋駅間が開通。
3年の工事期間と多くの費用をかけて完成し、材料を運ぶのに営林署の森林軌道が協力した。 広告
 
9月22日 伊都郡かつらぎ町から高野山へと通じる「西高野登山鉄道」が計画されたが、開通しなかった。
1930 昭和5年   この年の高野山駅〜女人堂までの人力車の数は102台となる。
1月 高野登山電気鉄道、高野下より極楽橋駅までの運賃値下げ運動が起こる。
6月29日 高野山電気鉄道会社により、極楽橋〜高野山駅間ケーブルカー開通。傾斜は最大1000分の568(千メートル行って568メートル高くなる)。
1932 昭和7年 4月 高野山電気鉄道(高野下〜高野山)と南海鉄道(汐見橋〜高野下)が相互乗り入れし、高野山〜大阪までが直通となる。
4月21日 高野山駅〜女人堂間バス運行に反対し、人力車250台以上でデモ行進が行われた。
1933 昭和8年 6月27日 高野山自動車株式会社が設立。高野山駅〜女人堂間の乗り合いバスの認可が下りる。
8月15日 高野山駅〜女人堂間のバス運行が開始された。写真
1934 昭和9年    人力車による高野山駅〜山内各所への乗り入れが可能となり、この年の人力車の数は250台となる。
4月3日 大門自動車会社により高野山駅〜大門までのバス運行が開始された。シボレー3台、乗り合いバス3台で営業。バスの山内乗り入れが許可されたのは昭和30年4月からであった。高野山駅〜大門間の道路は昭和3年頃からの整備計画によって進められた。
7月5日 橋本〜高野山間に玉川林道が5ヶ年の歳月をかけて完成し、高野山玉川自動車会社によりタクシーが運営される。タクシー10台、トラック5台。その後、昭和12年秋、南海電鉄に譲渡される。この林道は、昭和42年2月県道になり通行料は廃止、昭和50年4月国道371号線となる。 
1935 昭和10年 6月15日 高野山内への自動車乗り入れ反対運動がおこり、県知事宛に「高野山内自動車乗入阻止ニ関スル請願書」が提出される。
7月 大門自動車会社が南海鉄道に買収される。
12月4・7日 高野山に軍用車のサイドカーと軽装甲車が玉川自動車道路から登山し金剛峯寺前で機関銃を試射。
1936 昭和11年   高野町富貴から上筒香を通り、奈良県野迫川までの道が整備拡幅された。
1940
1943
1944
昭和15年
昭和18年
昭和19年
7月1日

9月3日
高野索道株式会社が南海鉄道に買収される。
紀和索道が南海電道に買収される。
高野線脱線事故。死者87人、重軽傷者100人を超える。
1947 昭和22年   高野電気鉄道会社経営の高野下からの高野線が南海電鉄の経営となる。
1948 昭和23年   南海直営バスが高野山駅〜女人堂間の営業を始める。
1952 昭和27年   バスの野迫川村行きに付いては、山内へ乗り入れは解除されたが、女人堂から桜峠までの間は停車することは禁止された。
1955 昭和30年 4月 バスの山内乗り入れ禁止は全面解除となった。
1956 昭和31年 8月3日 女人堂前にて山内バス乗り入れ反対運動がおこる。9月7日解決に至る。
11月18日 玉川林道(国道371号)橋本〜高野山間に南海電鉄定期バスが走る。
1957 昭和32年   南海電鉄細川駅から花坂矢立まで県道が開設された。
1958 昭和33年   かつらぎ町新城から湯子川にそって、高野町湯川まで林道が開設された。
1960 昭和35年   高野山有料道路が日本道路公団により完成する。昭和29年和歌山県により着工。6億1千7百万円の費用と、のべ33万人の労働者を要した。昭和43年8月16日には1日4962台が通行した。昭和62年県に移管され無料化となる。
1961 昭和36年 7月 橋本〜大門間に有料バスが開通した。
  高野山うぐいす谷から神谷、浦神谷を通って高野山道路(有料)に連絡する従来のトロッコ道が道路として開通する。この道も昭和55年頃までは通行料をとっていた。
1964 昭和39年   中の橋から大滝間に林道が開設された。
1965 昭和40年 3月19日 奥之院裏の黒子林道が開通された。鶯谷金時橋から桶谷までの1.96キロメートル区間。
1966 昭和41年 8月12日 高野龍神スカイラインが5億1千万円をかけて完成し開通式が挙行される。昭和55年7月舗装有料道路として完成。平成15年10月1日無料化される。
1967 昭和42年   高野町上筒香から河合橋に至る道が拡幅された。
  玉川林道が県道となる。
1975 昭和50年   玉川林道が国道に昇格された。
1987 昭和62年 4月1日 高野山道路が日本道路公団より県に移管され、無料開放される。
1993 平成5年 4月1日 高野山道路が国道480号(高野高野口線)、国道370号(高野高野口線)に昇格される。
2003 平成15年 10月1日 高野龍神スカイラインの通行料か無料となる。
2005 平成17年 この年、不動坂の整備が完成。
2006 平成18年 3月23日 かつらぎ町志賀と高野町花坂を結ぶ梨子ノ木トンネル(延長1070メートル「志賀高野山トンネル」)が貫通する。
4月9日 橋本市の国道371号「橋本高野橋」が開通する。
2007 平成19年 3月18日 一般国道480号志賀高野山トンネルが開通する。
2004.5.4 更新2007.3.19
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