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高野山道路について
近代交通の歴史



高野山道路
高野山道路入り口にて
高野山道路入り口にて。 写真は中本名玉堂提供。

高野山道路
道路が砂利道であることから昭和39〜40年頃に撮影されたものであることがわかります。
砂煙を上げて自動車が下っていきます。
 路線名:県道高野 高野口線 海南高野線
 起工:昭和29年(1954)3月16日
 竣工:昭和35年(1960)7月6日
 

 自動車での高野山への参詣は、「高野山道路」がメインとなります。高野山道路は、昭和62年(1987)8月10日付けで、日本の特色ある優れた道路として「日本の道100選」として登録されました。ところが、単に通行するということだけですと、狭い、曲がりくねって走りにくい、などと酷評されることも少なくないようです。しかも、かつては有料道路として上下二区間で料金を徴収していたのです。
 しかし、高野山道路を開通させるのには大変な経費と苦労、そして、山麓・山内住民の強い願いがありました。 昭和初期、高野山へと登る自動車道路は、橋本市より丹生川と清川の渓谷沿いを走る玉川林道(国道371号)が唯一でした。しかしこの道路は極端に道幅も狭く、川筋を走ることから道路決壊などが絶えませんでした。こうした状況から、玉川林道よりは道幅も広く、決壊しにくい本格的な登山産業観光道路が、山麓住民や山内住民からも望まれるのは当然のことでした。
 昭和27年(1952)、和歌山県は「道路整備特別措置法」が制定されることをふまえて、いち早く取り組んだのが「高野山道路」でした。「道路整備特別措置法」とは、交通の利便を増進することを目的に道路の整備を促進し、通行又は利用について料金を徴収することができる道路の新設、改築、維持する法律で、昭和31年(1956)3月14日に制定されたものです。
 昭和29年(1954)3月16日、和歌山県によって九度山町下古沢を起点に工事が進められ、その後、日本道路公団(JH)に引き継がれ、昭和35年(1960)7月6日に6億1700万円の工費と延べ33万人の労働者によって完成しました。山肌を削って設けられた道路の総延長は1万7002メートル、使用したセメントは8500トンで、相当に難工事であったと記録されています。
 高野山道路の開設当時は砂利道だったのですが、その後の昭和39年(1964)7月21日から舗装工事が始まり、昭和40年(1965)12月10日に完全舗装として生まれ変わりました。その時の工費は1億2740円でした。
 道路工事が行われていた頃の状況を、山内の方達にお話しを伺いました。そうしたところ、工事に従事した多くの労働者は山の中での作業はきつく、仕事が終わってからの余暇もなかったためか、毎日、山内の飲食店に繰り出したそうで、店の方はというと、何かに付け相当に苦労があったのだそうです。
 ともあれ夢の高野山道路は完成し、有料道路としてスタートしたわけですが、開通当初の一ヶ月の一日平均は414台で、昭和43年(1968)には年間22万4000台の利用となりました(『わたしたちの高野町』より)。そして、開通して27年後の昭和62年(1987)には無料解放され、さらに平成5年(1993)4月1日、国道に昇格して、国道480号(海南高野線)と国道370号(高野高野口線)の二本にまたがる国道として生まれ変わりました。
 ちなみに高野山道路の路肩に植えられている桜の木の多くは、高野山青年会によって植えられたものだそうです。              

高野山道路記録写真
世はマイカー時代に
世はマイカー時代に入った頃でした。

独特なガードレール。
高野山道路と山並み
周辺山々の木々の大半が伐採されているのがわかります。
高野山道路と山並み
大門にある高野山道路起点の風景です。

バスの向こう側には道路の料金表があります。普通300円 小型250円・・と記されています。

昭和36年(1961)の撮影です。
大門と高野山道路整備が以前の山並み
大門と高野山道路。ボンネットバスが走っています。

左の写真の拡大です。
昭和40〜50年頃の高野山道路
昭和40年代頃。
昭和40〜50年頃の高野山道路
昭和40年代頃。
高野山道路舗装工事石標
高野山道路舗装工事石標
日本の道100選石標
昭和62年8月10日付けで、
日本の道100選に選定されています。
2004.11.21 
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