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 高野市(こうやいち)
残したい記録


大滝口の女人堂跡
魚などが売られていたという大滝口の女人堂跡。


昭和初期頃の山内風景
昭和初期頃の山内風景
高野市(こうやいち)風景

 高野市とは、そのむかし高野山で年に一度か二度、定期的に開かれていた市のことをいいます。市とは今でいうフリーマーケットのような形態で、山内メイン通り道路沿いに出店することになっていました。ただ、誰でも出店できるものではなく、市を生業としている専門の人たちで成り立っていました。こうした出店者たちの間では、高野市のことを「タカマチ」と呼んでいたそうです。タカマチの「マチ」は祭りという意味があるとも解釈されています。つまり祭りのように賑わった市であったことが想像できます。
 高野市は山内に居住する人たちはもちろんのこと、高野山周辺の山里で生活者する人々にとっては欠かせないものだったといいます。旧暦の12月21日、山里からは当面の生活用品を求めて高野市へと足を運びました。背中に炭を目一杯に積んだ女性たちは、早朝から山道を歩いて高野山へと向かいます。その炭をお金に換えて高野市で必要な品を求めたり、髪結などへと行ったのだそうです。さらに遠い在所の人たちは前日からの泊まりがけとなります。大正3年(1914)12月の高野市では、干し柿やミカンや日用品などが売られていて、随分と盛大であったことが記録されています。
 昭和に入ると、食器、衣類、食料品が並び、ガマの油売りやバナナのたたき売りのような店までが出て、娯楽の少ない時代だったため、こうした物売りの口上は珍しくもあり、店先は人だかりとなっていたといいます。その他、綿菓子やおもちゃ、本屋、ぜんざい、うどん店など、五、六十軒ほどが出店して、当時の子供たちにとっては、寒さも忘れるほどワクワクするような一日であったことに違いありません。
 市が出ていた場所は、現在の蓮花院前辺りから高室院前付近の小田原通りと呼ばれる地区で、当時は、御殿川の流れが見えていましたので、各店は川を背にしての出店でした。なかでもガマの油売りやヘビ使いは人気があり、現在、観光協会中央案内所の建っている後方辺りがこうした店の定位置になっていたといいます。その他、小さな店は高野山の商店などから戸板を借りて、それを商品台として商売をしたのだそうです。
 このように高野市で売られていた品物は多種類に及びますが、戦前頃までは魚類など公然とは売られてはいなかったようです。魚類を扱う店は山内から出た大滝口という、高野山の南方にあたる高野七口の一つ大滝口女人堂跡で売られていました。大滝口からはそれぞれ村里への帰り道にもあたりますので、塩鯖などをぶら下げて帰っていった人も多かったようです。時に帰りが遅くなり、道に迷ったかのようにグルグルと同じ山道を歩き回り、ついには朝方になって気が付けば、ぶら下げていたはずの塩鯖が別のモノにすり替わっていた、などという話は枚挙にいとまがありません。
 こうした峠の魚屋は時代とともに消えましたが、高野市は、昭和30年(1955)頃まで続いたということです。

2008.1.1
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