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新高野街道長坂をゆく No.1 神谷地区
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ふもとの椎出(九度山町)に建っている「昭和天皇御成婚記念道程標」です。新高野街道の入り口に位置します。大正13年1月建立。

高野山から見る神谷地区。尾根に点在する家々がみえます。

神谷地区
 大正時代から昭和期にかけて、高野詣で一番多く利用された街道は、「新高野街道」あるいは「長坂街道」とよばれた九度山椎出〜神谷〜不動坂〜高野山のルートでした。こうした街道で高野山側に一番近く、京・大阪街道とも合流した位置にあたる「神谷(かみや)」地区には宿場街が形成され、たいへん盛況となりました。
 神谷地区は高野山から北に延びる山の尾根にあり、まさしく馬の背のようなひじょうに狭い立地条件となっています。にもかかわらず、たくさんの旅館や店屋、長屋、髪結屋などがひしめきあって建っていました。
 大正末期における神谷地区の記録(下記表)では、旅館などの宿泊施設が16軒もあり、総勢750人以上が宿泊できました。さらに芝居小屋、ラムネ・ミカン水製造、タバコ屋、軽食堂、草餅・まんじゅう屋、豆腐屋、薬・文房具屋、茶店をや、三味線と踊りの師匠までが存在しました。
 昭和5年(1930)高野山まで電車とケーブルカーが開通すると神谷地区は一気にさびれてしまい、往時の繁栄は見る影もなくなってしまいました。そこで、神谷地区の復興計画として、高野遊園地株式会社を設立し、一大遊園地を建設する計画が持ち上がりました。そこには、ホテル、食堂、温泉場、娯楽施設、療養所、貸別荘、グランド、スケート場など、あらゆる施設計画が立てられましたが、ついには実現しませんでした。

種別 屋号 収容人数 備考
旅館 80  
料理旅館 高城屋 50   
商人宿   20  
商人宿 大黒屋 30  
商人宿 紀の国屋 30  
旅館 50 なじみ客専用
旅館   30  
商人宿(演芸場) 大久 20 旅回り芸人(漫才、芝居など月二回上演)
商人宿 マンゴ屋 20  
商人・遍路宿 松のや 20 一泊40銭
料理旅館 もりや 20  
旅館 北国屋 50  
馬宿 立花屋 不明 伊勢神楽の定宿
旅館 有田屋 30  
旅館 花市 200  
旅館 花のや 100  
神谷地区に残されている平成6年度資料より

1.神谷地区の集会所前に立つ石造の道標です。大正13年(1924)に建立したことが刻まれています。建てたのは名古屋中区の方々のようです。今回は神谷地区から椎出に向けて出発です

2.神谷地区の新旧街道合流地点です。直進は「京街道(大阪街道)」、「新高野街道(長坂街道)」へは左折となります。

3.右の建物は「花のや」と呼ばれた旅館でした。当時は三味線の音色も聞こえた宿場でした。年中旅芸人がやってきて芝居、浪花節などを興行していたそうです。

4.しばらく進みますと、分岐点にでます。ここから「九度山町」となります。直進すると大正14年(1925)開通の高野参詣自動車会社による乗り合い自動車専用道路の旧道となります。

5.左の写真で、「新高野街道」へは右へと進みます。
 
6.右手に石の道標が建っています。「至高野山4800メートル 壹里八・・・」「至椎出4200メートル 一里二町・・」などと記されています。

7.この先に見晴らしが良い場所があり、当時は茶店がありました。店には「黒石の仇討」の額絵が掲げられていたといいます。

8.しばらくは歩きやすい道でしたが、倒木や草におおわれてきます。

9.小さな谷ごとに道が寸断され、木々が倒れて道をふさいでいます。

10.このあたりの道は、地形的に道幅がとれないため、谷側に木材で柱を組んで、橋のような形式を取っていたそうです。

11.橋の下には、ハンセン病を患い、誤った知識による偏見などで住む家を追われた方々が相当数おられたそうです。

12.橋桁の残骸。高野山までの街道筋では、大正12年(1923)頃まで、そうした方々が生活しておられたようです。
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2004.12.12

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