よもやま記 > 1.外不動堂
1 | 2 | 3 | 4 | 5
 1.外不動堂 (清不動)(そとのふどうどう)   
いにしえの「外不動堂」の位置をさぐる   BACK|NEXT
街道沿いの名所


現在の外不動堂(清めの不動明王像)
現在の外不動堂
外不動堂前の石標
外不動堂前の石標
明治期の外不動堂
明治期の外不動堂

 極楽橋から女人堂へと至る不動坂の途中には、「外不動堂」あるいは「清不動」とも呼ばれているお堂がひっそりと建っています。この堂は、大正9年(1920)、大阪の枡谷清吉、寅吉親子によって、現在の位置に移転改築されたものであることが堂前の石碑からわかります。
 ここでは、移築前に存在したという外不動堂が、本来どの場所に建っていたのかを調べて見ることにしました。 
 尚、堂の名称については、現在の堂を「清不動堂(きよめのふどうどう)」とし、移築前を「外不動堂(そとのふどうどう)」としておきたいと思います。

 外不動堂の歴史
 江戸時代の記録では、外不動堂は弘法大師の創建であるとしていますが根拠はありません。寛文年間(1661〜1672)になって、備前国上道郡金岡の荘、野崎久家入道(金剛崎庄野三郎兵衛入道久家とも)という人が再建したと伝えられています。
 その後、明治16年(1883)に焼失し、明治20年(1887)大阪伏見町の産婆さんであった、上田みち(明治27年11月17日没)という女性一人によって再建されたといいます。まとめますと下の表のようになります。
 この時期の外不動堂は、現在の不動坂のルートではない旧不動坂の途中に建っていました。大正4年(1915)に新ルートが開通したわけですが、それにともなって外不動堂は忘れられた状態となったようです。大正4年4月15日発行の『高野山時報』40号によりますと、次のように記されています。 

四十七曲りの不動坂の苦難は高野登山の名物だったが、今はその面影も残っていない。中途にあった不動堂も何れは新道の何処かに移されるさうだが今のところ山の方では其処まで手が届かず寂しい姿のまま残っている。

 新たな不動坂が開通したことで旧不動坂は全く利用されなくなり、その途中に建っていた外不動堂は取り残されました。これを憂いだ桝谷親子が、大正9年(1920)に現在の場所に移築したのです。

外不動堂関係年表
年号 西暦 事 柄 備 考
    創建 弘法大師創建と伝える
    本尊 覚鑁上人の御作とも(高野独案内)
寛文年間 1661〜
1672
再建 備前国上道郡金岡の荘、野崎久家入道(国上道県金剛崎庄野三郎兵衛入道久家とも)という人が再建
明治16年 1883 焼失  
明治20年 1887 再建 大阪伏見町の産婆、上田みちにより再建
大正3年度 1914  新不動坂開設 不動坂を含む高野街道が県道(仮定県道)に昇格し、不動坂のルートが変更された
大正9年 1920 移築再建 大阪の枡谷清吉、寅吉親子により現在の地に移築された

NEXT2.外不動堂の名称と本尊 
2005.2.6
よもやま記 > 1.外不動堂