

高野山絵図(不動坂)

南海高野線極楽橋駅

極楽橋

高野山絵図

明治時代の外不動堂 |
徒歩による高野山への登山道は、大きく分けて7つがあり、古来より「高野七口」とも呼ばれています。
中でも高野二大参詣道として発展したのが、 九度山慈尊院からの「町石道」と呼ばれる表参道と、橋本、学文路から九度山町
河根(かね)を経て神谷(かみや)へ至り、極楽橋から不動坂、高野山へ と登る「京街道」と呼ばれた裏参道です。
近世、特に明治から昭和にかけては、この京街道が最も近道でもあることから賑わいをみせました。
河根地区には、旅館や料亭、茶店が軒を連ねていたといわれ、高野詣の帰途、
「精進あげ」と称して盛大に酒盛りが行われていたといいます。さらに、 河根から数キロ登ったところが「神谷」地区なのですが、そこにも旅館
などが軒をならべ、その盛況ぶりは目を見張るものがあったといわれています。
しかしそうした賑わいも、昭和5年(1930)の山上までのケーブルカー開通によって、次第に閉ざされることとなります。
さて、ここではこの「京街道(不動坂口)」に残る名所を紹介したいと思います。
まず河根地区から神谷へ至る道中に日本最後の仇討現場となった「黒石」があり、
神谷から極楽橋の途中に「四寸岩」があります。神谷から「四寸岩」への旧道は、
現在ほぼ廃道になって閉ざされてしまっています。この四寸岩をすぎると、「極楽橋」(昔は不動橋といったようです)が見えてきます。
現在の朱塗りの極楽橋は、昭和59年(1984)に架け替えらたものです。
極楽橋を渡ると、左手にケーブルカーを見ながら胸突き八丁の「不動坂」へと登って行きます。
この不動坂の途中に 「万丈転」と呼ばれた場所がありました。現在、その位置確定を出来ずにいますが、不動坂の途中はたいへん深い谷になっており、高野山で罪を犯したものが簀巻きにされて谷へ投げ込まれるという
「万丈転の刑」が執行された場所がありました。けれどもこの刑をうけても、幸い命に別状無ければ
無罪放免となったそうです。
「極楽橋」より約2キロメートル程登ると、水量の多い時期には左手の谷から滝の音が聞こえてきます。この滝が「稚児の滝」です。さらに登ると「外の不動・清めの不動堂」があります。そうして、いよいよ女人堂へと至ります。
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