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小説 灯籠堂の僧 (とうろうどうのそう)
文学・歴史・伝説

 灯籠堂の僧

 「灯籠堂の僧」は小説家長谷川伸氏によって、雑誌『中央公論』 に昭和36年(1961)年12月号から連載された「日本敵討ち異相」の中の一編として登場するもので、「昭和37年度 代表作時代小説」にも選定されています。
 題名にある灯籠堂(とうろうどう)とは、高野山の奥之院にある弘法大師御廟(ごびょう)の拝殿のことで、このお堂の中には、消えずの火として、これまで一度も途絶えたことのない灯明があり、また信者の方々によって、たくさんの油灯明が掲げられいました。現在は、燈籠のほとんどが電球に代わっていますが、数年前までは、それでも300基ほどは、油を注いで灯心に火を灯していました。天正2年(1574)銘、燈籠
  「灯籠堂の僧」とは、この灯籠堂で、そうした灯明の管理をしていた人物が、敵討ちとして討ち取られた事件です。
 先日、ある記念講演(「文学に見る高野山」 神坂次郎氏)で、この「灯籠堂の僧」の題材となった事件が、江戸時代に実際に起こった出来事を小説にしていることを知り(再度確認はとれていませんが・・)、ここに概略のみご紹介し、文学作品「灯籠堂の僧」のご一読をお勧めするものです。
尚、「日本敵討ち異相」は、『歴史・時代小説ベスト113 シリーズ』に納められ、中公文庫より2001年1月に発行でされているようです。

 概 略

 享保9年(1724)4月4日、備前船尾(現在の岡山県浅口郡船穂町)で、ある男の他殺体が草むらの中から見つかります。男の名前は茂七郎(もしちろう)といいました。この事件を知り、現場に駆けつけたのは浅野平右衛門という男で、殺された茂七郎の兄でした。その死体の足下には懐剣が落ちており、平右衛門には、この懐剣から直ちに犯人を想定することができました。その犯人とは、玉島(現在の倉敷市)にいる叔母の末子「与市」であるといいます。茂七郎と与市とは普段から仲が悪かったようです。

 −−二人の兄−−−−−
 ところで、殺害された茂七郎には、平右衛門との間に安右衛門という兄もいました。安右衛門は、武士にあこがれ十代後半には岡山へ出て、その後、一万五千石の小さいながらも大名に取り立てられ、徒士(かち)として勤め、25歳になった時に茂七郎の一件を兄平右衛門からの手紙で知ることになります。それを知った安右衛門は、直ちにお暇を乞い、船尾に戻ります。
 ところが、犯人である与市は一向に見つかりません。もちろん陣屋の一行も捜し回っているのですが、既に遠くに逃げているらしく、遂に事件後103日目になって、与市の母親を牢獄につなぎ、本人に自首を促したのでした。そのことを聞いた与市が自首して出ます。現れた与市のその姿からは、既に出家して僧となっていることがわかりました。
 ただちに、お裁きがあり、与市は死罪と決まりました。処刑が行われることとなり、陣屋から呼び出され、安右衛門が行ってみますと、既に与市は処刑された後で、死体はボロ布にくるまれている状態でした。

 −−9年後の真実−−−−−
 通常なら、これにて一件落着となるのですが、事態は数年後にとんだ方向へと進むことになります。地元の琢源寺の無洒法師という住職から、その頃、江戸にいた殺害された茂七郎の兄、安右衛門に手紙が舞い込んだのです。
 その手紙には、数年前、玉島の陣屋で行われた与市の死刑は、どうも換え玉であったらしいということが書かれていました。しかも与市は今も生きており、その居場所もおおよそわかっているのだと書かれています。
 それを知った安右衛門は、あっさり江戸を後にして、国元へ帰ります。このあたりに、直ぐ行動に移す安右衛門という人物の性格がよくわかります。時に享保18年(1733)2月で、弟、茂七郎が殺されて9年になろうとしていました。 
 安右衛門は、兄、平右衛門から、与市は生きていること、さらに与市の隠れている場所は、紀州の高野山であると聞き及びます。 平右衛門は長男で浅野家を継がなければなりませんでしたので、茂七郎の祥月命日4月4日に合わせるように、安右衛門が仇討ちにと船尾を後にします。 

 −−高野山へ−−−−−
 安右衛門は、高野山に突然入っても三千を超える僧の中からそう簡単には犯人である与市を見つけることが出来ないと考え、無洒法師の紹介状を得て、あの手、この手を使って、高野山に入り込む手だてを行います。最終的には、京都の醍醐寺へ赴き、安養院という寺で得度し、覚応(かくおう)と名乗ります。この辺りはすさまじい執念としか言いようがありません。安右衛門から覚応になり、住職の信頼を得るまでになり、満を持して高野山で修行したい旨、申し出ます。正智院と金剛院
 享保19(1734)年、安養院住職に許され、紹介を受けて、高野山の正智院の末寺で金剛院(右写真)という小さな寺で一人生活が始まります。それは仇(かたき)である与市を捜し出すためだけの生活ともいえます。

 −−策略−−−−−
 安右衛門は、その時点では知らなかったのですが、与市は同じ正智院に僧籍があるというのです。茂七郎を殺害の後、近親の援助を得て、高野山に入り、行人方の西方院で得度し、名前を快伝(かいでん)と改め、後に正智院に入るのですが、その時点で、自分の母親が身代わりに捕らえられていることを知って、国元に帰って自首したというのです。西方院自首してからのいきさつは分かりませんが、結果的には与市の両親は陣屋の役人を取り込んで、さらに与市を助けるべく替え玉作戦で一芝居うつ計画が謀られたらしいのです。

 −−仇を発見−−−−−
 安右衛門は高野山でついに与市(快伝)を捜し当てました。聞くと奥之院の灯籠堂(とうろうどう)で灯明の火ともし役をしており、住まいは南谷の中性院の長屋の一室で一人で住んでいることがわかりました。先ずは本人であることを確かめなければなりませんが、なにせ安右衛門は少年の頃から、武士になるために岡山を出ていたので、与市の顔を知りません。逃げられては元も子もありませんので、ふいに中性院の長屋へと赴き、問いただした後、仇討ちを行う段取りを練り上げます。
 快伝(与市)は体格が良く、剣術柔術も達者で、どういうわけか常に樫(かし)の棒を護身用に持っているのだという情報から、安右衛門は、鎖帷子(くさりかたびら)、鎖頭巾(くさりずきん)を着こんで、一尺八寸(約54センチメートル)の刀と九寸五分(約28センチメートル)の脇差しなど周到に準備していました。

 −−敵討ち−−−−−
 10月23日午前11時頃の昼食前をねらって、快伝の住む中性院の長屋に向かいます。家の中で障子を閉める音がしたので、安右衛門が表障子の覗き口から中を覗くと、快伝は立って自分の方に振り返っていました。すぐさま安右衛門が障子戸を開けようとしましたが、鍵かかかって開きません。中性院
 安右衛門は障子戸越しに自分の名前を告げます。中からは、「今日は気分が悪いので、他日にしてくれ」との返事が返ってきました。この一言で快伝と与市は同一人物であることが、ほぼ確定されます。
 そうこうしているうちに、双方から障子戸を押し引きしていたことで戸は外れ、その出会い頭に、安右衛門が既に抜いていた刀が快伝の頭に当たり、そこから矢継早に刀を振り下ろし、ついに快伝は絶命します。大声を出しての争いでしたので、中性院の住職は慌てて快伝の家に飛び込んできます。周囲の人達も集まって大騒ぎとなります。
 安右衛門は、すでに絶命している快伝の元に再び近づき、死体に向かって右腕に一箇所、大腿部に一箇所、右耳の下にかけて二箇所太刀を突き刺し、その後、囲炉裏の中に快伝を蹴落としました。血が燃え残りの炭にかかり、灰が舞い上がります。憎しみからくる、凄まじいまでの行状というのでしょうか。

 −−取り調べ−−−−−
 この後、金剛院の一室で謹慎となった安右衛門は、殺人犯として取り調べをうけることとなります。こうした事件の取り調べは当時正智院が担当していたと小説の中では語っています。安右衛門の京都での師である醍醐安養院の住職に、本件の連絡が正智院からもたらされ、10月27日から高野山側数名と安養院側(12名)とで安右衛門の引き取り等の交渉が正智院で行われました。
 高野山側は、今回の事件は与市は快伝本人ではなく、人違いであるとしますが、安右衛門側はあくまでも仇討ちであると主張します。幾日経っても両者の言い分は真っ向から対立したままとなりました。ついに、安養院側が歩み寄って談判がまとまりました。

 −−下山放免−−−−−
 11月13日になって、ようやく安右衛門の下山が許されることとなりました。許されようになった理由の一つのとして、安右衛門側の引き受け人である醍醐安養院側が、この事件は人違いであることを認めたことによるというのです。安右衛門としては、全く以て不服だったのですが、仕方ありません。安右衛門は罪人としてカゴに入れられて山を下りていきました。
 その後、安右衛門は大阪に住んで漢学初歩の先生となって一生を終えたのだそうです。  おくのいんとうろうどう 高野山絵図より
高野山絵図(奥之院灯籠堂)
参考:「日本敵討ち異相 長谷川伸著」中央公論社 昭和38年発行本
注:「かたきうち」とした場合、「敵討ち」を使い、単に「かたき」としする場合は、読みやすいように「仇」の字を使用しました。

2003.9.26
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