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| 明治期における高野山寺院一覧 |
| 弘仁7年(816)の高野山開創以来、山内塔中・塔頭(たっちゅう)寺院がどのように発展していったのかを、時代を追って調べるには容易なことではありません。 ある時代では、高野山上に7774坊あったとする記録があり、また明暦元年には1883坊、江戸時代の元禄時代から明治までは774坊が数えられています。 ここでは近代に絞って、明治初期に記された「寺院合併絵図」(仮称)をもとに、現在のように117ヶ寺になるまでの一過程を知る上で、寺院名を谷別に見ることにしました。 これによって多くの山内寺院が統廃合されたことが分かります。明治時代の寺院統廃合は、廃仏毀釈をきっかけとして総数774坊であったものが、明治10年(65ヶ院合併)・19年(164ヶ院合併)・21年の三度にわたって順次縮小されたといわれ明治前半期の記録(秀衛経蔵文書)には、寺院数436ヶ寺であったと記されています。 「寺院合併絵図」には、現・金剛峯寺境内(興山寺跡)に「中・大学林」が既に設けられています。専門学校の前身である小教院が興山寺跡に移ったのは明治6年(1873)で、大学林は明治10年(1877)、中学林の併設は明治13年(1880)と記録されていますので、絵図自体は明治13年以降に描かれたという事になります。 しかしこの絵図には、廃寺と合併前に存在した寺院名と敷地なども詳細に記されていますので、明治13年(1880)以前の状況をも示していることになります。
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