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  心中万年草(しんじゅうまんねんぐさ)
文学・歴史・伝説
高野山女人道 心中万年草

 日本が生んだ最高の劇詩人と賞される近松門左衛門(1653〜1724)は、近世の浄瑠璃・歌舞伎作者として実に多くの作品を残しています。
 近松は当時実際に起こった事件物(心中・犯罪)を題材に、新しい浄瑠璃(世話浄瑠璃)として作りあげ、当時、大変流行したようです。代表作としては「曾根崎心中」が有名です。
 こうした事件物の中に、高野山を舞台とした「高野山女人堂心中万年草」があります。
 その内容は、成田久米之介(19歳)と梅(17歳)との心中事件を題材に、近松が脚本したもので、江戸時代の宝永5(1708)年4月「心中万年草」と題して初演(竹本座)され、続いて「高野万年草」として改訂上演されて、近年では平成5年に公演されています。
 心中万年草の題材となった心中事件が、本当に起こった話かどうかは現在も結論が出ていないようですが、一説には寛永5年(1708)3月6日の事件であったともいわれています。これは近松が芝居の脚本制作に際して、実際に起った心中事件などを取材して、そのわずか一ヶ月後には芝居として見せることを得意としていたことから、可能性として十分に考えられるわけです。脚本の内容からは、2月6日から7日にかけての事件であったことがわかります。

 さて、それでは「心中万年草」の内容を私なりに簡単にご紹介したいと思います。あらすじがわかりやすいようにサブタイトルを付け多少変更していますので、興味のある方は是非翻刻本などをご参照ください。

○成田久米之介
  (播州飾磨 成田武右衛門の息子 吉祥院に入寺小姓となる)


○お梅 
  (高野山麓神谷 雑賀屋与次右衛門の娘)


久米之介の出家
 久米之介は播州飾磨(兵庫県姫路市)の成田武右衛門の息子として生まれます。12歳の時、伊吹重太夫の二男、卯之介(11歳)という友達と闘鶏がらみから喧嘩となり、そのはずみで卯之介を殺害してしまいます。加害者である久米之介に対して一旦切腹とのお裁きが下りましたが、殺された卯之介の両親の口添えで、出家してお坊さんになり卯之介の供養をすることを条件に、死罪は免れ落一件落着しました。そんなわけで、久米之介は縁あって高野山の南谷吉祥院というお寺に小姓(雑用係の子供・こしょう)として入り、いずれは修行して、お坊さんになることになっていました。

お梅との仲
 一方、お梅は、高野山への登山道の一つである京街道の神谷の宿にある雑賀屋、与次右衛門の娘で、たいそう美人であったといいます。どこで二人は知り合ったかはわかりませんが、このお梅の兄、花之丞(はなのじょう)19歳は、久米之介と同じく吉祥院の小姓で同輩、時には寺の用事か何かで雑賀屋に出入りするうちに知り合ったのかも知れません。ともかく、久米之介とお梅は数年前から人目をはばかる仲であったということです。
 
お梅の縁談
 そんな折、突然、お梅に縁談の話が持ち上がりました。相手は雑賀屋と取引のある京都三条烏丸、美濃屋の作右衛門という中年男で、お梅に惚れ込み、両親に大枚(現金)をわたして、祝言まで持ち込んだのでした。
 お梅にしてみれば、これは一大事と、いち早く吉祥院で修行する久米之介に伝えなければなりません。しかし高野山は修行の道場で女人禁制、女性は山内に入ることが許されません。一考を案じたお梅は、雑賀屋に出入りしていた岸和田の九兵衛というカゴ舁(かき)に頼み込んで、事の状況を久米之介に知らせるよう手紙を託します。それと同時に、久米之介にお暇をいただけるよう吉祥院の住職にも手紙を書きました。まともに書いては埒(らち)もないので、久米之介の父、武右衛門が老体により隠居されるので一旦帰郷させて頂きたい旨、親族総意という願い状にして届けるよう段取りしました。お梅は男の筆跡をまねるのが上手だったといいます。

お梅の失態
 ところが、お梅自身よほどあわてていたのか、手紙の宛名は間違ってはいなかったのですが、肝心の中身が入れ替わっていて、そんな事とは知るよしもない取次者である九兵衛は、そのまま住職と久米之介に渡してしまいました。つまり住職に渡す内容の手紙が久米之介に、久米之介への恋文が住職にわたってしまったのです。これによって、二人の仲が発覚してしまうのですが、時同じくして、その日は播磨路の大名の使者が吉祥院に墓石を納めにくる日でもあり、一行はまもなく到着しました。

殺された卯之介の兄
 墓石を納めに来た大名の使者の中には、同じ播州の出身という伊吹千右衛門という人物がおりました。千右衛門は、同国の武右衛門の子息久米之介に会えたことで、なぜか涙にくれるのです。その様子を見た久米之介は、これは情の深い方だと思い、頼み事をすることにしました。その頼みとは、どうしても山を下りなければならない用事ができたので、同郷のよしみで、住職に頼んで途中まで連れて帰ってもらえないかというものです。
 それを聞いた千右衛門は膝を正したかと思うと、烈火のごとく怒り出しました。実は、千右衛門は久米之介に殺された卯之介の兄だったのです。丁度事件があった時、 遠く江戸にいて駆けつけることができず、その仇(かたき)に一目会いたいと、この度のお役を願い出て高野山に来たというのです。さらに、「本来なら仇なので討って取りたいところだが、既に出家しているとなるとそうもいかない。しかし山を下りようなどと考えるは、在家に戻ると言うこと。それなら仇として討ち取るので、住職に 許可をと・・」と声をあらげます。

住職の怒り
 ちょうど吉祥院の住職はその話を聞いていて、先の手紙との一件があわさり、怒りは頂点に。住職から、久米介とお梅との間柄を聞かされた千右衛門は、あまりの内容にあっけにとられるばかりでした。
 久米之介の兄弟子祐弁などは、怒りのあまり走り出て久米之介を座敷の下に投げやって、千右衛門に討ち取るよう申し出ます。それを聞いて千右衛門も続いて下に降り、刀を抜きましたが、思い返し、峰打ちで軽く打ち付けるに止めました。千右衛門は久米之介に対し、これで既に死んだと思ってやり直すよう強く勧めます。久米之介は、ただただ泣くばかりでした。
 ところがどうしても住職には許してもらえず、ついには破門となり、不動坂へと追いやられてしまいました。久米之介は、その足でお梅の元へと走ります。お梅の祝言は明日に迫っていました。

お梅の実家
 お梅の家では明日にせまった作右衛門との婚儀が整えられていました。そうした状況のなか、久米之介はやってきます。お梅の両親は驚きますが、なんとか九兵衛のはからいによって、家の二階で二人会うことができました。
 しかし、その後を追うように、お梅の婿となる作右衛門が血相を変えてやってきます。婚儀に備えて前日に高野山入りをしていた作右衛門が、先の騒動を山上で聞き及んで、急ぎ飛び込んできたのです。二階には久米之介とお梅の二人がいます。両親は、久米之介だけを逃がす段取りをしたのですが、夜陰に紛れて久米之介に伴われて、お梅も一緒に逃げ出してしまいました。

女人堂へ
 しかし二人はこれといって行くあてもありません。死を覚悟して闇夜に高野山へと登っていきます。不動坂の途中の「児が滝(ちごがたき)」まで来たとき涙を押さえることができません。そして女人堂へたどり着きます。
 当時、女性は山内に入れませんので、時には女人堂内で寝泊まりする場合がありました。二人は真っ暗闇の女人堂に入ります。誰もいないと思っていたのですが、不意に声をかけられ自分達よりも先に泊まっていた婦人一行がいることを知りました。真っ暗闇の中、その婦人と種々話を交わす内に、婦人が播磨の飾磨(しかま)の者で成田武右衛門の娘「サツ」といい、久米之介という弟が吉祥院という寺に居るはずなのだが、使いをやったが、居るともいないともわからない。人によると麓の神谷の宿を訪ねよとも言う。サツが弟である久米之介を探すには理由がありました。父、成田武右衛門が2月1日、69歳で亡くなっており、その遺骨を納めにきたというのです。

万年草
 それを聞いた弟である久米之介は、驚きとともに返事もできませんでした。しばらくして久米之介自身が「久米之介という人物は、昨日の昼から大病を患って、今晩の命であると、明日になれば詳細がわかるに違いない」と言ってしまいます。
 サツは、今日、弟の久米之介の安否を気遣い、ある占いをしたのだが、どうも良く無かったのだといいます。その占いとは、万年草(まんねんぐさ)と言って刈り取ってもそのままにしておくと発根するほど強い草があり、特に高野山の万年草は人の寿命を占うのに使ったのです。サツは常々守り袋に入れてた万年草を谷川の水に浸しましたが、なんと、その まま枯れてしまったので、これは既に弟の命は無いものかと思ったりもしていたところだったので、久米之介の話を聞いてサツはさらに嘆きます。

心中
 そうこうしているうちに、夜も明けようとしてきます。いよいよ二人は死ぬことを覚悟し、堂の外に出ます。その隅で、久米之介は脇差しをお梅の胸に押し当て、光明真言を唱えつつ一気に突き立てました。お梅のうめき声が漏れ、サツ一行がそれに気づき、「人殺し!」と皆あわてて逃げ出していきます。堂内に残ったのは、久米之介の父の骨桶と樒 (しきみ)だけでした。久米之介はそれをおしいただいてから、刀を自からの喉に突き立て、お梅のそばに寄り添うようにして息絶えました。

吉祥院について
  「心中万年草」が上演されたのが宝永5(1708)年4月ですので、この頃に描かれた高野山山内絵図には、元禄6年(1693)本と宝永3年(1706)本があります。 絵図の元禄6年本には「吉祥院」という同じ名称の寺院が8〜9ヶ院も描かれています。
 続く宝永3年本では3ヶ院となっています。わずか数年で6ヶ院も減少していますが、これについては、元禄6年11月の「」と呼ばれる、高野山始まって以来の一大紛争があったからだと思われます。
 心中万年草には、「南谷の吉祥院」と出てきますが、元禄6年の絵図を見ますと、南谷にはどうも「吉祥院」は存在しないようです。近松は、敢えて吉祥院が存在しない地区を選んで、南谷としたのかも知れません。 

女人堂 高野山絵図より
高野山絵図(女人堂)
下の写真は、宝永3年以降の高野山絵図です。
左から西院谷吉祥院(学呂方)・往生院谷吉祥院(行人方)・往生院谷吉祥院(聖方)と同時期に同じ名前の寺院が存在します。  
2003.9.17
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