よもやま記 > 高野山山林の歴史




















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森林軌道・山林・索道
はじめに

 高野山周辺のトロッコ軌道を調べていましたら、実に山の奥深くまで、さらには広範囲に軌道が走るのに大変驚くのと同時に、それにともなって画一的に植林された人工林に味気なさを感じるのも事実です。
 そもそも高野山は、弘仁7年(816)の太政官符によって高野開山が許可されたわけですが、その寺域は周辺の山林も含め広範囲に及んでいました(一説には七里四方とも)。
女人道にて 以来、寺域山林の管理は、無用な乱伐は勿論のこと、一木一草、薪を採ることをも特定な場所以外ではであった伝えられるほど厳しいものでした。
 さらに江戸時代になると「年預」という管理制度を設け、天然林を残しつつ植林するなど厳重に管理育成してきたことによって、一時期において天下の名山林とまで言われたこともありました。しかし、それがなぜこうした人工林に変化したのか、ここでは高野山における山林の歴史を簡単に振り返ってみることにしました。

 1.高野山の山林---
高野山の堂塔や寺院の建物は、度重なる火災との戦いの中で幾度と無く建て替えられてきたのですが、その度に木材が必要だったことは明かなことだと思います。
しかも堂塔の建立・修理には良材が必要だったことは言うまでもありませんので、冒頭に述べましたように伐採した跡には必ず新たに植林するなどして維持管理してきました。
 古来の植伐方法は、めぼしい木を数本伐採し、直ちに同じ木を植栽するといったことを行なっていたようですが、明治以降になりますと効率化を重視するようになり、一山ごとに伐採し、その後にスギやヒノキが一斉に造林されるようになります。

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 2004.3.20
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