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大魔王になった覚海尊師
霊宝館の真向かい、増福院の門前に杉の木があります。幹には「しめ縄」が巻かれ、その後ろには「覚海大徳翔天之旧跡」と書かれた石碑が建っています。以前、「覚海というお坊さんがこの杉の木をつたって空へ昇っていった」というような話を聞いた記憶があり、前を通る時にふと思い出すこともあったのですが、古い文献をあたってみるとどうやら話は少し違うようです。
覚海尊師(1142〜1223年)については、よもやま記「高野豆腐の話」に少し説明がありますが、現在増福院がある場所に華王院(花王院とも)を開いた僧で、高野豆腐を最初につくった、という伝説でも知られています。しかし貞応2年(1223)8月18日に82才にして”天に昇った”話が有名だったようで、さまざまな文献に微妙に異なる話が記されています。
天に昇ったといっても単に亡くなった、という訳ではなく「高野春秋編年輯録」(1719年)によると覚海尊師はその日、山中の魔障を封じるために中門の扉2枚を翼にして”飛び去った”とされます。さらに「野山名霊集」(1752年)には、当時高野山と吉野との間で領地をめぐる争いがあり、これが魔障の仕業であると悟った、といった経緯や両腋から翼が生え、門扉を倒して飛び去り、「大魔王」に変じて天魔を使役し山を守ったということが記されています。「紀伊続風土記」(1839年)、「紀伊国名所図絵」(1845年)にも翼が生えて飛び去ったとあります。
その他、以下にこれらにまつわる話を挙げたいと思います。
覚海上人天狗になる事
文豪・谷崎潤一郎(1886〜1965年)は昭和6年(1931)の春から秋にかけ、高野山龍泉院内にある泰雲院に滞在し、三編の小説を執筆しています。浅井長政夫人(お市の方)を描く「盲目物語」、滞在中に聞いた話をもとにした「紀伊ノ国ノ漆掻キニ狐憑ク語」、そして「覚海上人天狗になる事」です。
「天狗になる事」には上記のような文献からの引用と筆者自身の見解が記されています。また、増福院へ赴き、住職から話を伺ったり、資料を提供されたようで、増福院には本書の署名入り初版本が進呈されています。
短い文章であり、読みづらい文体のせいかあまり知られていないようですが、当時は覚海尊師の伝説を広めるのに一役買ったのではないでしょうか。
ところで、増福院には覚海尊師の肖像(画像・彫刻共)が伝わっているのですが、それらを見ますと尖った鼻やギョロッとした目が天狗を連想させるのかも・・・という気もします。
前七生を知る僧
覚海尊師がなぜ天狗となるに至ったか?については弘法大師が顕れ、師の前生を語ったという話があり、こちらも興味深いのでその「七生」を簡単に記します。
- 最初は小さなハマグリであり、童子によって天王寺の堂前に置かれ、読経の声を聞く。
- 荷物を運ぶ牛であり、大般若経を書写するための紙を背負う。
- 馬であり、熊野に詣でる人を乗せる。
- 神仏の前で火をともす者となる。
- 大師廟で密教修法に関わる給仕者となる。
- 検校となる(現在の生)。
・・・と積んだ功徳によって生まれ変わり今の立場がある、という訳ですが次の7.は「翼を生やして自由に飛び、鼻も伸びて赤黒い体となって法を護る」と告げられています。異形の姿は高野山の秩序を乱すものを見張り罰するためで、いわばほとけでいうところの明王の役割を担うといった感じでしょうか。
ここまでを振り返ってみると、空へはばたいていった、という記述は多く見られるのですが、杉についてはどこにも記されていません。増福院前の石碑は碑銘によると昭和16年(1941)に建立されたようですが、そういえば確かに「杉」とはどこにも書かれていません。このことについてはまだまだ調べてみる必要はありますが、すぐ近くの伽藍境内には登天松があり、あるいはこの話と混同されたのかもしれません。
霊宝館横の細い道を上がったところには飛び去った覚海尊師をまつる祠(ほこら)があり、こちらについては前述の文献の全てに記されています。このような不思議な話が伝わっていることもあり、古くから高野山の、或いは参詣の人々によって畏敬の念と共に信仰されてきたのでしょう。小さな公園のさらに奥、覚海社に続く苔むした階段を登りつつ高野の峯々を飛び回る老僧の姿を想像するのもまた楽しいものです。
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