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高野三方(こうや さんかた)
その他



青厳寺の土壁
現在も残る青厳寺の境界を示す土壁。

青厳寺と興山寺が廃止され金剛峯寺となったことにより、青厳寺は西院谷に移転します。一方の興山寺は、明治39年(1906)大分県臼杵の本覚院教会に移転されたといわれています。

大徳院は、東京の旧在番所へ移されました。
(以上、『高野山大学百年史』より)

 高野三方と代表寺院
 明治以前、高野山のお坊さんは、高野三方(三派)といって、学侶(がくりょ)・行人(ぎょうにん)・聖(ひじり)の三階派に分かれていました。それぞれには代表寺院があって、学侶方は青厳寺(せいがんじ)、行人方は興山寺(こうざんじ)、聖方は大徳院(だいとくいん)で統括していました。
 これら三方は、分野別にそれぞれの役割があるのですが、時には、お互いの権利がぶつかって、もめごとが起こる場合も少なくありませんでした。
 近世高野山の歴史が、高野三方の闘争によって形成されたといわれるほど、行人と聖、学侶と聖、また三者三つ巴となって、幕府を巻き込んでの争いごとにまで発展することがありました。

 学侶、行人の本寺である青厳寺と興山寺は、現在の金剛峯寺境内に建っていて、明治以前は、両寺院の南北には道路が走っており、それぞれの寺域は明確に分かれていました。
 明治2年(1869)3月29日(諸説あり)、三方が廃止され、青厳寺が金剛峯寺となりました。興山寺の寺域は、明治6年(1873)小教院と呼ばれる学校となり、明治10年高野山大学林、明治19年(1886)古義大学林となります。その後、昭和4年(1929)に現在の位置に移転するまで興山寺の寺域に存在しました。現在では新別殿として金剛峯寺の境内地となっています。
 こうして、数百年にわたって続けられてきた三方の争いに終止符が打たれました。

 一方の聖方大徳院は、移転されて現存しませんが、建っていた場所は、徳川家霊台の下(南)、現在の南院の位置にありました。

青厳寺・興山寺
向かって右半分が青厳寺、左が興山寺です。
大徳院
聖方の大徳院、上方が東照宮(徳川家霊台)です。


明治2年(1869)、大徳院跡には、講学所と呼ばれた学校が設けられました。
学侶
主に研究や修法、法会に専念し、学識深く僧階の最高位に昇ることができました。

 学侶方の青厳寺は、文禄2年(1593)、豊臣秀吉の母、大政所(おおまんどころ)の菩提を弔うために建てられた寺院で、最初、大政所の剃髪(ていはつ)を納めるために剃髪寺という名だったのですが、後に青厳寺と改名されました。建てられた場所は、現在の金剛峯寺の東半分に位置しました。

行人
法会や諸堂舎の管理から、炊事や雑用、年貢や出納管理の仕事が主でした。

 行人方の興山寺は、天正18年(1590)木食応其上人の勧募によって創建した寺院で、客僧のための学校(学寮)として出発します。落慶の後、豊臣秀吉は「興山寺」と寺名を与え、一千石を寄進したとされています。青厳寺より先に建てられたわけですが、その場所は、青厳寺の西隣、現在の金剛峯寺奥殿の位置に相当します。


全国を巡りつつ、唱道や勧進をしながら信仰を説いて廻りました。

 聖方の大徳院は、もと蓮花院という名称で、高野山における徳川家の菩提寺ともなっていました。その後、光徳院と改号したのですが、文禄三年(1594)、豊臣秀吉一行と共に高野山へ参詣した徳川家康は、寺名を光徳院から、さらに大徳院に改めたといわれています。
2006.7.21
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